■当ブログの…
【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html
の末尾に触れたように、元王子製紙社長の藤原銀次郎の茶室「暁雲庵」が、父の墓所のある杉並区梅里の眞盛寺に移築されているらしいことが判明したことから、昨1月7日の墓参の折に参道右手にある茶室を参観してきた。
■能書きは…
ほどほどにしておくことにして、同山は、檀信徒以外は入山不可
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環状7号線から山門に通じる参道を東方向から |
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参道入口左にあるサイン |
のこともあってか、ネット上では同山に興味を持たれている方も結構おられるようなので、茶室だけとはいえ、いわば「代参」。
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山門やや西から
画面左端が本堂、右手が暁雲庵 |
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参道からみた暁雲庵全景 |
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外露地腰掛待合西面 |
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同上東面 |
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外露地から垣越しに見た暁雲庵 |
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内露地から見た暁雲庵南東部 |
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内露地の蹲踞 |
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屋根と扁額
間違いなく暁雲庵 |
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暁雲庵南面 |
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同上南面西端
塵穴は角型。柱の下部のやや大きめの礎石と土台下の小さめのそれとの関係がよくわかる。 |
■冒頭の…
記事で少し触れたが、この暁雲庵。最初は、
三田用水沿いの港区芝白金今里町一一七番地麻布區新網町2-16の藤原邸内にあった
らしい。
【追記】
箒庵高橋義雄「甲子 大正茶道記 」慶文堂書店/T14・刊
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183131/181
「…斯くて余は十一月二十八日の佳招を蒙り例の通り麻布新網町暁雲庵の寄附に推参すれば…」とあった。
なお、ゴム新報社 編「大日本護謨同業名鑑」同社/T02・刊 p.ム175 〔https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950441/208〕によれば、麻布新網町は、藤原の昭和7までの本宅である。
また、交詢社の日本紳士録掲載の藤原の住所は
・昭和7年までは、麻布新網町2-16
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145826/381
・昭和8年以降は、白金今里町121
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145885/385
とされている。
この「芝区白金今里121」一帯の117番地にも藤原は茶室を設けたが、暁雲とは別の号を採って「長間堂」と名付けたという情報もあったので、後記【追記1】までは、暁雲庵と三田用水路との関連は確定できなかった。
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M42測T05修測1 1/10000地形図 品川 抜粋 ただし、藤原が新網町からここに転居してきたのはS07/08なので 藤原邸が表示されているとすると、S12修測図のはずだが、未入手
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藤原銀次郎は、いわば「茶〔道具〕敵」であったらしいサッポロビールの前身日本麦酒の社長を務めた馬越恭平などと同じく三井出身で、おそらく、三井不動産が世田谷区玉川にあった幽篁堂庭園跡をパークコート二子玉川*1として開発するにあたり、同地にあった暁雲庵を、三井寺〔みついでら〕こと、この眞盛寺*2が引き継いだのも「三井の縁」なのだろうと思われる。
〔藤原銀次郎の〕祿子夫人逝いて早くもー年、秋を迎へ、春を送って一周忌の日は近づいて来た。中野堀ノ内の本願寺墓地に建設中であった墓所も完成したので、その納骨を前にして、夫人が生前最も深く好愛してゐたお茶会を催して追善の志とすることになった。昭和二十四年五月十九、二十日の両日、藤原氏は最も親しかつたお茶の友人達を、緑のしたゝる白金の暁雲庵に招じて、壊しく主客で夫人を偲ぶ追善の茶會を催し、續いて二十一日には、永年にわたって藤原家の道具集めに力をつくした山澄不問氏の未亡人はじめ、山澄商店の関係者等を招いて跡見の會を開いた。(pp.471-472)
とあった。
藤原が、当初暁雲庵を設けたのは当時の藤原邸のあった、麻布區新網町2丁目16番地であるが、goo マップで昭和22年の同地を見ると、一面焼野原であり、藤原が白金今里に移った後も暁雲庵が当初の場所にあったのなら、現在眞盛寺に残っているわけがない。
によれば、そもそも、新網町2丁目9~17番地は、強制疎開の対象地だったことが判明した。
したがって、仮に昭和20年近くまで暁雲庵が同地に残っていたとしても、藤原がこれを残すには、どこかに移築するほかなかったわけで、その時期いかんはともかく、暁雲庵が新網町からどこかに移築されたことは明らかである。
これに対し、「…回顧八十年」が出版されたのは、祿子夫人追善の茶会からわずか半年後であり、「緑のしたゝる白金の」茶室の名前を誤るとは考えにくいので、藤原が白金今里への転居にあたり、暁雲庵を同所に移築していた可能性が高い。
この白金今里の藤原邸の敷地は面積4~5000坪に及んでいたといわれ、たとえば、いわゆる眞行草の様々なタイプの茶室を同地に複数建てることは十分可能だったろう。
さらに調べてみると
福岡市美術館研究紀要#9
中、pp.74-49〔pdf pp.79-54〕(逆綴)
後藤恒「雪中庵茶会記 翻刻版(5)」
は、工芸家仰木政斎による昭和15年1月から同16年2月間の茶会記を翻刻したものであるが、その
○藤原暁雲翁邸建塔茶事供養会 六月三日
の条に、
藤原が原六郎より譲り受けた多宝塔*の白金今里の藤原邸への移築工事が落慶したのを記念して催された供養の式と茶会の記録に、
「茶席ハ暁雲庵、山里庵、外数席である」
とあった(p.68〔73〕)。
これで、ここ何年も抱えていた、果たして暁雲庵が三田用水沿いに存在していたのか(正確には「存在していたことがあるのか」)、という疑問が、2つ目のソースが見つかったことから、ようやく氷解した。
残るのは、果たして藤原邸に三田用水の水が引水されていたのか**、との疑問だけになったわけである。
** 気になるのが、昭和七年三田用水普通水利組合歳入歳出予算表(三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S54・刊 pp.168-172)の「臨時歳入部」(同p.169)に「寄附金 六〇〇円」が「分水口設置ニ付 寄附金」として計上されていることである。
この時期は、白金今里の藤原邸が着工されたと考えられる時期と整合しているし、茶庭の池のために不可欠だったのなら藤原に出せない金ではない。
しかし、この地には、大正半ばから民間会社である玉川水道株式会社による上水道が敷設されおり(後掲の今里橋欄干遺構の写真参照)、池水は常時給水が必要なわけではないため、そのための「水道代」は、藤原にとって「端金〔はしたがね〕」で済むはずなので、倹約家との評価も高かった(といっても、出すべき金は惜しまなかったし、茶道具については「湯水のように」金を使っていたといえる)藤原が、この600円を池水のために寄附する気になったかについては疑問が残る。
さらに、昭和7年という時期は、常時大量の水が必要な庭の渓流や複数の滝水のために三田用水を引水していた目黒雅叙園の開業時期(昭和6年)ともほぼ整合しているので、前後の年度の記録が無いのも手伝ってなかなか悩ましい。
【参考写真】
●旧藤原銀次郎邸の肩書地である白金今里町121番地
【参考】
直近の今里橋脇の、かつて三田用水路を渡っていた水道管
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2009年2月11日撮影 |
●白金今里にかつてあった、〔推定〕旧藤原銀次郎邸庭園からの排水口
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2009年2月11日、排水口を東方向から撮影 |
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同上、西方向から撮影 |
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【当ブログ再掲】2016年6月11日撮影 後期の久留嶋上口右岸分水に、ほぼ正対する位置にある。 |
【追記2】
たまたま、眞盛寺さんから頂いていた
「天台眞盛宗 東京別院 天羅山 眞盛寺史 年表 並びに歴代住職の思考史」
と題する年表の、平成15年(2003)の項に
東海大学稲葉和也教授の縁にて三井不動産より世田谷区玉川、幽篁堂庭園より茶室暁雲庵・腰掛待合・江戸時代初期の四脚門、十三重石塔・石造諸塔・赤松等を譲受け、表境内、及び奥殿の庭園を造園す。
とあった。
稲葉先生とは、かつて代官山のヒルサイドテラス内を流れていた三田用水の縁で、代官山にある重要文化財の旧朝倉家住宅
の保存・活用を巡って、何度かお目にかかったことがあります。
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2018年10月16日 重文・旧朝倉家住宅にて 左の襖の奥が稲葉先生 |
その折、当方が世田谷区民であることをお話したら、世田谷区の文化財保護審議会会長を長く勤められていた稲葉先生から「渋谷区だけでなく、世田谷区についても活動するように」と促されたこともあって、世田谷代田駅前広場の「ダイダラボッチの足跡」探しのお手伝いをさせていただく結果
につながりました。
改めて「ご縁」の不思議さを思い返します。
【追記】
コメントを下さったトーマスさんの論文。おそらく、これ
Thomas Ekholm ”DÅ HAR JAPAN UPPHÖRT ATT VARA JAPAN- Det japanska tehuset vid Etnografiska museet,samt bilden av chanoyu i Sverige och väst, 1878-1939 -”
https://gupea.ub.gu.se/bitstream/2077/57787/3/gupea_2077_57787_3.pdf
当ページのURLは、p.164の註779にあり、その本文(スウェーデン語らしい)をgoogle で翻訳したところ、1935年11月28日の毎日新聞に、藤原と暁雲庵に関する記事が掲載されているらしいことが分かった。