2017年6月6日火曜日

【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合

■小坂克信先生から…
羽村市郷土博物館・編「羽村市郷土博物館紀要 第三十一号」同市教育委員会/平成20年3月30日・刊
をお送りいただいた。

■左から開く…
縦組みのページの中の
出版社であるクオリの代表者である
http://bigai.world.coocan.jp/msand/miwa/kuori.html

比留間 博「玉川上水十三里小考」〔同紀要pp.24-30〕
は、大変興味深いものの、その内容の検証には、この先、かなり時間がかかりそうなので、「後回し」というか今後の課題にしておくことにする。

■と、いうわけで…
同紀要中の
 小坂克信「武蔵野台地における玉川上水の水利用」〔同紀要pp.31-53〕
の方をじっくりと読ませていただいた。
 内容的には、小坂先生の、これまでの研究成果の、いわば集大成の要約。
 とくに、近世の享保あたりから昭和の時代に至るまでの、当方のメインテーマである三田用水史を含めて、時系列的にコンパクトにまとめられているので有難く読んでいたところ

■その…
46ページの「表6 昭和6年6月 玉川上水の分水 (東京市第二水道計画参考書)」なる表〔以下「分水表」という〕を見て「ビックリ」。
 かねてから、欲しかったデータの一つだったのである。

■と、いうのも…
この昭和6年当時のデータによれば、三田用水普通水利組合〔以下「組合」〕による三田用水の給水先は
飲料水に使用している者(推定)    0人
雑用水に使用している者(推定)    0人
田反別(=田用水に使用している面積) 0反
水車数(精穀・工業)            0基
工場                     3か所
庭園                     14か所
となっている。

■つまりは…
この昭和6(1931)年の時点では、もともとは農業用水だったはずの三田用水の水で灌漑する田圃はゼロで、結局は

3か所の工場と
14か所の庭園(つまり、池の水)

に給水するため「だけ」に組合が存続していたことになる。

■これらの「水の使用者」のうち…
「池の水」については、もう少し調べなければわからないのだが、
「工場」については、この論文の46ページによると
・海軍技術研究所
・ヱビスビール
・電信協会
の3か所の由。

 このうち
・海軍技術研究所 は、現・防衛省技術研究所
・ヱビスビール  は、現・エビスガーデンプレイス
の場所にあるのは自明、加えて
・電信協会    は、防衛省技術研究所の北隣りの別所坂上
にあったことがわかっている*

*一次資料が不明のため詳細は略すが、ある文献には、昭和27年当時の用水利用者として
・大日本麦酒(ヱビスビール)
のほか
・目黒雅叙園  <http://mitaditch.blogspot.jp/2017/07/1.html>で詳述
・東光園      (鑓が崎交差点付近)<http://npodsi.sakura.ne.jp/dhp2017/mitayosui/file04.pdf>のp.18参照
・日本交通公社 全く不明
が挙がっている。
そのほか、恵比寿の日の丸自動車教習所南の伊藤ハム(目黒区三田1-6-21。ただし、昭和33年当地に進出)を挙げる資料もあるが、これも出典不明。


■ここまでわかってくると…
これまで、ある程度まで想像はできてはいたものの、いわば「最後のウラが取れなかった」3つほどの問題について、はっきり、解明が可能になってきた。

■その懸案というのは…
3つあったのだが、そのうち2つは「ほぼ見当はついていたものの、最後のウラが取れなかった」という類の話なので、まずは残りの1つから。

■数少ない…
今も残る三田用水の遺構

①~④の遺構は、今後の,、図中にある環状4号線の工事で消滅することになる。
この街中に、こういった遺構が残っていたのには、それなりの「訳」があったのである。

の一つに、白金台の「石積の築堤」がある。


 ここは、いかにも存在感のある用水路の石積の築堤の西端が残されている場所ではあるのだが

渡部一二〔わたべ かつじ〕著「玉川上水系に関わる用水路網の環境調査」とうきゅう環境浄化財団/1980・刊
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E7%B3%BB%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8B%E7%94%A8%E6%B0%B4%E8%B7%AF%E7%B6%B2%E3%81%AE%E7%92%B0%E5%A2%83%E8%AA%BF%E6%9F%BB

のpp.355・356によると、現存している遺構から、上の写真の手前(東)方向の40~50メートルの部分が、渡部教授の調査時点である昭和54(1979)年3月3日当時〔p.358〕崩壊していた

渡部論文p.335より引用
という。

渡部前掲p.136 写真49


■かつてWeb上で…
情報を探すと、どうやら、1934(昭和9)年9月の室戸台風で決壊「(今里101 番地)旧町野武馬邸表庭に放水滝に上大崎へ流水。」*となったまま、放置されていたらしいことがわかってはいた。
https://www.city.minato.tokyo.jp/takanawachikusei/takanawa/koho/documents/takanawab2.pdf

*なお、https://ameblo.jp/henry7/entry-10368695526.html も参照

■問題は…
なぜ、決壊したまま放置されていたのか、にある。
 と、いうのも、この場所は、江戸時代から築堤(築立場)を作って用水を通していた場所らしいのだが、


国会図書館・藏「御府内場末往還其外沿革図」より


大正12年の関東地震でそれが崩壊し、おそらく昭和2年まで時間と3500円という大金をかけて、石積みの築堤を再構築した*はずの場所だからである。

*三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同/S59/09/30・刊 p.277

■しかし…
先にみたように、この昭和9年当時、すでに
  • 流域に全く水田はないのだから、かりに三田用水全体の通水が止まっても、そのために困る農家は存在せず、その点では水車用水についても同様だし
  • 工業用水についても、需要者中の最下流にあるヱビスビール(当時は大日本麦酒)への分水口である、今の日の丸自動車のあたりにあった銭瓶窪口まで通水できれば足りていたのである。



■従って…
残るのは、庭園用水しかなく、現に問題の崩落場所のすぐ上流には、藤原銀次郎という三井出身の財界人の別荘があって、


藤原銀次郎茶庭
同「私のお茶」講談社/S33・刊


〔推定〕旧・藤原銀次郎邸庭水排水口跡
おそらく現存せず


なぜか旧藤原邸跡地にあった茶室風建物
2009/02/11撮影:現存していない

そこの池に水を供給していたのだが、それより下流に庭園水の需要者がいたのかどうかも不明なのであるし、いずれにせよ

  • 人の生命や企業の存亡にかかわる水ではなく
  • すでに近代水道(日本水道)が引かれていた地域でもあるし
  • なにより、年間の引水料が1軒につき17円程度*だったので、多額の費用をかけて築堤を再築しても採算が合わない可能性が高かった

ためと考えて大きな間違いはなさそうである。

*前掲「江戸の上水と三田用水」p.168の昭和7年度の「歳入歳出予算表」に「西郷従徳外三名」分の「用水使用量」として、前年度と同額の68円が計上されている。
 先の「分水表」の14軒と較べ、おそらくは上水道の普及によると思われるが、需要者が激減している。

【余談】

「藤原銀次郎の茶室」なるものを調べていると…

齊藤康彦「根津嘉一郎の茶会ネットワーク」
山梨大学教育人間科学部紀要  第 十三 巻 二〇一一年度
http://opac.lib.yamanashi.ac.jp/opac/repository/1/29184/13_XXXI-XLIII.pdf
p.32(pdfのp.2)によれば、この白金今里の藤原邸の茶室は、「暁雲庵」と名付けられていたことがわかった。

藤原銀次郎は、明治2(1869)年生まれ昭和35(1960)年死亡、昭和9(1934)年ころは65歳で当時としては驚異的ともいえる資本金額1億5000万円の王子製紙社長の時代であり、この時期、すでに当地に茶室を設けていたと考えてよい。
また、三田用水事件の第一審(東京地裁)判決(昭和36(1941)年)の「第三目録」の「二(2)(ホ)」に、三田用水の流路を特定する記載として「港区芝白金今里町九〇番地から一一七番地先(藤原銀次郎邸茶室脇から南里橋)まで。一一五・五間」とあるので、少なくともこの裁判が提起された昭和27年当時、この茶室は現存していたと考えられる。

 で、この「暁雲庵」、細かい経緯は不明ながら、なんと我が家の菩提寺である、杉並・梅里の三井寺〔「みいでら」ではなく「みついでら」〕こと真盛寺



に移されていたことがわかった。
http://goddoor70.exblog.jp/5993589/

 これまで、墓参の折などに写真は撮っていたのだが(なお、檀家・墓参者以外入山禁止)、最近はあらかた、境内にいる「地域猫」の写真



ばっかり。

 次回には、この、「暁雲庵」の写真を撮りたいところだが、同寺には、山門を入ってすぐ右の1棟


のほか、境内奥、本堂西に多分2棟の茶室があって、どれが「暁雲庵」なのやら…。

【余談追記】2017/08/13

従前眞盛寺からいただいた年表を確認したところ…

本堂西の奥庭にある茶室は、平成18年移築修理された武者小路千家由来の「一方庵」に加え、「泥子閑」*「寂庵」とのこと。

「暁雲庵」については、平成15(2008)年の条に「東海大学稲葉和也教授の縁にて三井不動産より世田谷区玉川、幽篁堂庭園より茶室暁雲庵・腰掛待合・江戸時代初期の四脚門、十三重石塔・石造諸塔・赤松等を譲り受け、表境内、及び奥殿の庭園を造園す。」とあり、上の写真が暁雲庵と考えて間違いないようである(今後、墓参や施餓鬼会の折にでも確認してみたい)。

*別の資料中に「坭子関」、「泥子関」との標記もある。

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