2017年3月18日土曜日

【余録】「旧山手通り」は、なぜ「『旧』山手通り」なのか?

【追記】
下記2017年3月17日の講演録のpdfファイルが
「代官山ホームページ」
http://www.daikanyama.ne.jp/
中、「三田用水 アーカイブ」
http://www.daikanyama.ne.jp/mitayosui/index.html
に「No.6」
http://npodsi.sakura.ne.jp/dhp2017/mitayosui/file06.pdf
としてアップロードされました。

本ページと併せて、ご笑覧ください。

■不思議な「ご縁」で…
NPO代官山ステキ総合研究所のイベントでお話させていただく機会も、去る2017年3月17日が3回目となりました。
 その
1回目、昨2016年初夏のときは、「水車」の話で、
2回目、同年9月のときは、「三田用水・鎗が崎の『土管』」なるもので、
それぞれ、お話しをしたこちらの方が「引いて」しまうほど盛り上がってしまいました(そもそも、後者については、「ひょっとしたら、あそこじゃないかなぁ」という以上の予備知識がなかったせいでもあります)
 今回、ご要望のあったテーマの一つは、大まかにいえばヒルサイドテラス前あたりから、略北方向に玉川通りの神泉町交差点(個人的には、かつての名称「上通3丁目交差点」というほうがなじみやすい*までの(実はもう少し北に続いて山手通りの松涛2丁目あたりまでがそうらしいのだが)「旧山手通り」の成立史でした。

*同様に「西麻布の交差点」といわれてもすぐには場所がイメージできないが、「霞町の交差点」といわれると瞬時にイメージできる。

■私自身も…
この「旧山手通り」なる道は、運転免許を取った昭和44年以来、たまたま車で大学に行ったときの帰り途など、気が向いたときに、「ちょっと回り道」をして通っていた「楽しく走れる高級感のある道」なのですが、なぜ、冒頭に「旧」が付くのかは、かねがね40年以上、疑問に思ってはいたものの*、今回まで改まって調べたことはありませんでした。

*と、いっても、大抵の場合「南平台の道」とか「ヒルサイドテラスのところの道」で話が通じるので、あえて突き詰める必要もなかった。

■今回調べてみて…
判ったことは、この「旧」という1文字に、東京(府・市・都)の
・明治に始まる、俗にいう帝都改造計画*
・大正12年に始まる「」災復興計画
・昭和20年以降の「」災復興計画
の、全てが凝縮しているともいえることだったのです。
*公式ないしそれに近い呼び方としては「東京市区改正」というらしい

■代官山周辺の…
「山手通り」には、大まかにいえば、
・駒沢通りの槍が崎交差点を南端とし、松涛2丁目あたりを北端とする、
  いわば目黒川左岸の崖線上の「旧山手通り」(以下、仮に目黒川の崖線上の道なので「上の道」という)と、
・品川方面から目黒川沿いの低地を北上してきて、
  玉川通りの氷川神社手前の立体交差でやや東に進路を変え、
  玉川通りをアンダーパスする「山手通り」(おなじく崖線下の道なので「下の道」という)
とがあります。

■実は…
最初の環状6号線こと「山手通り」は「上の道」であり*、これが戦後すぐ、環状6号線が「下の道」に付け替えというか「振り替え」られ、それに伴って「上の道」が「補助25号線」へと「格下げ」されて「『旧』山手通り」と呼ばれるようになっていたのです。

*「上の道」 の「『旧』山手通り」が開通するまでの由来は、この地の三田用水の用水路の帰趨と深くかかわっています(その点については、稿を改めて)

■以下…
当日のプレゼン資料を使ってその経過をご説明します。

●「上の道」の由来


  つまり、一言でいえば、関東大震災からの「震災復興計画」の一環として昭和2年に計画決定された道路といえます。

●「下の道」の由来

 この道は、震災前からの、いわゆる「帝都改造計画」の一環として
 
 

 

という、当時、ほとんど「近世のまんま」だった*、東京の市街地の道路の負担を軽減するために計画された、市街を通過するだけの車を迂回させるための道路と思われます。

【参考】


「江戸朱引絵図」文政01(1818)年12月
幕府が「江戸」の範囲を、江戸城を取り巻く朱色の線の内側と取り決めたときの図
(黒い線〔墨引線〕は、江戸町奉行所の管轄範囲を示す)
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm
「Ⅰ.3.9街路」など、この環状道路が、朱引線のやや内側に沿ったものであることがわかる。

 近世、つまり江戸時代の東海道、中山道、甲州道中といった主要街路は、すべて日本橋を中心として放射状に設けられていましたから、たとえば、埼玉方面から神奈川方面に向かう車(当時のことなので、自動車だけでなく、馬車・牛車さらには人が牽く荷車も同じ。以下同)は、東京市街に何の用事も無いのに、日本橋を経由する必要があることになります。

 そのような「東京市街に用事のない車」によって旧市街の道路が必要以上に混雑するのを防ぐために、この旧市街の外側を迂回する道路が必要だったわけです。

*大正5年当時でも「街路は幹線道路でさえ満足な舗装がなされておらず、晴れの日は黄塵が舞い、雨が降れば泥濘となり、ドジョウが棲むと皮肉られたほどであった」という(越沢明「東京都市計画物語」中央経済評論社〔都市叢書〕/1991・刊p.4)。

●「上の道」と「下の道」の位置関係は…

こういうことになります。


●この「下の道」略号「Ⅰ.3.9街路」は

昭和3年には、開通していました。

●一方「上の道」の方は…
 
昭和8年に着工されています*
 
*この着工の時点での、旧山手通りの原型にあたる道路は、明治末~大正初期に開通した幅員5メートルに、三田用水の水路の直線化・暗渠化の用地として朝倉家が提供(実質的には、旧水路敷との交換)した幅員1.2間(約2.2メートル)を加えた約7.2メートルでした。
 もっとも、水路の暗渠は、下図左の断面図のような(無筋)コンクリートのU字型の溝(今のような「プレキャスト」ではなくて、多分「現場打ち」)の上に、同じく右のようなパネル状の鉄筋コンクリート製の蓋を並べて載せたものですが、この蓋は、いわゆる「シングル配筋」、つまり、力が加わるはずの上下方向とは直角の水平方向の鉄筋が1段しかないので、この上に自動車を通すには無理がありますので、おそらく、この蓋付き暗渠の部分は歩道として使われたのでしょうから、車道幅は先の5メートルから大きくは広がっていなかったと思われます。
東京都公文書館・蔵
 
 
東京都公文書館・蔵
 
●ちょうど…
その工事中の空中写真が国土地理院のデータベースにありました。
 


 この時点では、南平台あたりは工事完了。現在の都立商業高校あたりは、まだ施工中ですが、昭和13年には、現・神泉町交差点と鎗が崎交差点間が全通しています。
 
 事態が「ややこしく」なったのは、これからです。
 

●「戦災」復興計画
 
 昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾による敗戦と相前後して*、文字どおり焦土と化した東京**などの復興計画の策定が開始されました。


*内務省や東京都では、公式な宣言受諾より5日ほど先立つ、昭和20年8月10日には「戦災」復興計画の検討が開始されている(前掲・越沢p,201)、
**東京については、昭和20年3月10日の東京大空襲(下町空襲)があまりにも有名なので、その陰に隠され気味だが、同年5月24・25日には、山の手地区も空襲(山の手空襲)によって広汎な区域が罹災している。


 その一環として

 「S54東京都告示第886号」の原典は未入手。重複路線を整理しただけの可能性も高い。
 
 これを図で示せば
 

 つまり、もともとは全く「別の道」だった、「Ⅰ.3.9号線」のほぼ北端と「環状6号線の1」の南端近くとの間に、新しい道を作り、両者を一つにつなぐことによって、品川方面と板橋方面とを直通する「1本の道」でつなぐための計画だったわけです。
 このことによって、品川方面から板橋方面に向かう車は、氷川神社下で右折して上通り3丁目で左折する必要がなくなり、逆方向の車も、鎗が崎で右折して今の中目黒立体交差のところで左折する必要がなくなります。 
 
 なお、計画当初の段階では、赤点線のような「Ⅰ.3.9号線」北端の氷川神社南と今の東大裏交差点を直線的に結ぶルートが描かれていましたが、今の東大教養学部(当時は「第一高等學校」)のキャンパスのほぼまん真ん中を突き抜けるという「無茶苦茶」な計画で、どう考えても机上の空論。
 
【追記】
「道路・緑地配置版 新生 東京詳細地図」三和出版/S21/05・刊
(世田谷区立郷土資料館「特別展『地図でみる世田谷』図録」同館/H29 /10・刊 より一部を引用)
[新]環状6号線が玉川通り大坂下から一高キャンパスを貫いて富ヶ谷に直行する計画だったことがわかる。
 
 実際には、紫色の点線のような現実的なルートになっています(この計画変更の資料は未発見)
 
【追記】
東京都世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」〔特別展図録〕同館/H29・刊の図版091の解説に
「東京都戦災復興都市計画は、昭和24年のドッジライン(財政金融の緊縮政策)などにより、圧縮される。同年6月「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」が閣議決定となり、復興計画は、「国情に鑑み」「必要なる限度」に止めることとされた。この結果、100m道路、緑地帯は廃止となる。」とあった。
【追々記】単なる、推測~妄想だが
宣言受諾後は「軍」の発言権はゼロに近くなるので「官」(具体的には内務省≒東京府)が、敗戦のドサクサまぎれに、震災時の「後藤新平の理想」を実現しようとしたのかもしれない(さすがに、GHQ側から「これはまるで戦勝国の都市計画」と釘を刺されたという話を何かで読んだ)
 
■一般論としては…

この旧山手通りの主要道路である環状線から補助線への「格下げ」は、「よいことでは無い」のですが…
 
代官山地区にとっては、むしろ「幸運」だったといえ
 
 
 
 そのために、「落ち着きのある街路」が「落ち着きのある街区」を産み、その「落ち着きのある街区」が「落ち着きのある街路」に留めるという相乗効果によって、それらが*、今も残ってくれているのでしょう。
 
*もっとも、ここまで街区としての「まとまり」を持つと、地区計画があろうがなかろうが、建築主の「沽券にかかわる」ので「場違い」な建物は建てにくいだろう
 
【参考】昭和13年完成直後の旧山手通りと、ほぼ同一時期で 

【追記】2017/11/18

 この会の司会の労をとっていただいたばかりでなく、当方のお話を面白がって聞いてくださった元倉眞琴先生の訃報に接しました。
 こころよりご冥福をお祈りいたします。



2017年3月12日日曜日

東大先端/生産技術研究所前の暗渠化時期

■いわば…

公式の三田用水史といってよい
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊
によれば、三田用水路の
笹塚〔正確には「世田谷町大字下北沢字堀向」〕から大日本麦酒工場までの、同社施工区間
末流である大日本麦酒工場から下流の、三田用水普通水利組合施工区間の暗渠化が行われ「全体の工事が完了したのは、昭和十四年~十五年であった」(pp.236・237)としているのだが、小田急線との交差部の工事完了が昭和16年中と考えられること
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html
からみて、この記述は必ずしも正確とはいえないことがわかった。

■そこで…
念のため、比較的時期が特定しやすいポイントと考えられた、そのやや下流にあたる、現・東大駒場キャンパスの資料を探してみた。

駒場公園内「旧前田邸和館」掲出の昭和初期の空中写真の一部に補入


 ここは、駒場農学校時代から「…一覧」という構内図付き案内書が発行されていて、ここの大半が、第一高等学校や前田侯爵邸になった後も、旧来の敷地西端で、現在は東京大学先端/生産技術研究所となっている東京帝国大学航空研究所(以下「航研」)については、同様の構内図があるのではないか、と考えられたからである。

農商務省農務局「駒場農学校一覧」同/M17・刊(NDLID:812768)掲載(下方が北)





■その予測通り…
国会図書館のデータベースを検索してみると、明治期に始まり昭和16年度までの多年度にわたる「東京帝国大学一覧」があるので、該当時期とみられる昭和12年度あたりから15年度の航研の構内図を順次調べてみた。

■その結果…
航研前〔北〕の三田用水路が暗渠化されたのは、以下のとおり、ほぼ昭和14年で、ここに関しては「江戸の上水と三田用水」の記述と整合することがわかった。

 すなわち、

・昭和15年度の「…一覧」<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466162>掲載の「昭和15年3月31日調査」の「建物配置図」


では、その右端〔北〕の道路との間に「三田用水路暗渠」との記載がある。

【資料映像】
先端研/生産研前の橋の欄干の遺構



 それに対し、その前年の、
・昭和14年度の「…一覧」<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466223>末尾近くの「昭和14年3月31日調査」の「建物配置図」


上端〔北〕には、そのような記載がなく、単に濃いグレーの開渠と見られる水路が描かれているだけだからである。

配置図にある、水路に架設されている橋については、Web
 http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita04.htm
 を参照されたい。

【追記】

 やや本題から離れるが、上記の昭和15年の配置図を見ると
・図の右上に、「三角橋」の位置・形状が、これまで見たどの地図類よりも詳細に描かれている

北が上方になるように転回


・図の上方のは「都市計画道路線」とあるが、これは、都市計画道路20号(現・26号)路線で、
 ここの航研の施設との関係で、当初計画を修正した経緯(この図は、その変更後)については、別ブログ
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/09/26-02d7.html
 を参照されたい。

 今から50年ほど前、当地に越してきた当時は、夏など窓を開けていると、時折、航研の風洞の音が聞こえてきた。
 当時から、その風洞がどこにあるのか興味はあったのだが、今回、初めて、その位置がわかった。
 そのころは、周囲に家が建て込む前で、北側中央にある本館の時計塔(今でもある)が、我が家の2階から直接見えていたのだから、風洞の音が聞こえても、当然だろう。


2017年3月11日土曜日

東北沢駅東の三田用水の立坑がまだ残っていた。【21/02/23追記】

■複々線化工事の進む…

小田急線東北沢駅は、地下部分の構造物はすでに完成し、駅舎もすでに仕上げ段階に入っている。

 この駅の東、旧代々木上原3号踏切脇には、かつて三田用水が流れていた。



大山谷停車場(現・東北沢駅)設計平面図
東京都公文書館・蔵


 
線路の地下化工事にともなって、三田用水の水路の数少ない遺構の、線路下のサイフォン〔推定〕の立坑
 http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita03.htm
 (末尾近くの「[追記]2003/04/04」以下参照

も、とっくの昔に破壊されたとばかり思いこんでいた。

■普段は…

旧3号踏切のあった駒場道ではなく、1本西の裏道を通っているので気づかなかったのだが、昨日、ポストに寄る都合から、駒場道を通ったところ、最近まで工事現場にあったコンテナ式の事務所棟が取り払われていた。



    
        事務所棟のあった場所をよく見ると、何とあの立坑遺構は、まだ、周囲がH型鋼で組んだ枠で補強され、その上に鋼板を乗せた工事着手当時のまま、残っていたことがわかった。



   

 おそらく、肝心の工事の方の工程の都合もあり、立坑への対処の方針が決まらない状態で、事務所棟を置いたために、手つかずで残されていたのだろう。

■今後…

この場所では、駅前広場を造る工事が行われるはずなので、おそらくは、いわゆる「埋め殺し」にされて、姿を消すと思われるが、全く期待していなかった物を改めて見ることができ、


以上の写真は〔Elmarit28/4th〕


大げさにいえば、旧友に久しぶりに再会した気分である。

■この場所は
昭和初期、ビールの醸造用水の水質の維持のために恵比寿の大日本麦酒が始めた、従来の開水路〔白堀〕を、ヒューム管による暗渠にする工事にともなって、昭和16年ころ、水路と交差する小田急線の鉄橋を廃止して、サイフォン〔推定〕で線路下に用水を通す構造に変更したようなのである*

*国立公文書館に
 件名   三田用水橋梁廃止の件
 階層   行政文書>*運輸省>陸運関係>鉄道関係>地方鉄道免許・東京急行電鉄(元小田原急行鉄道)・昭和16~17年
 請求番号 平12運輸01878100
 件名番号 030
 保存場所 本館-3B-014-00
 作成部局 鉄道局
 年月日  昭和16年11月13日
 <https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000001300679.html>

なる記録がある。
 

 小田原急行鉄道で三田用水の橋梁があったとすれば、この、旧代々木上原3号踏切東脇以外にあり得ないので、下図のようなサイフォン化が昭和16年ころ行われたらしいことがわかる。


上記Webの図を修正
 
 
【追記】
■工事開始直後に…
携帯で撮った写真が出てきたので、この機会にご披露することにした。

2005/04/27 11:36
線路南の建設会社の寮の解体工事
 
 
2005/04/27 18:13
夕方には解体工事が完了していた
オリジナルの「蓋」の様子がよくわかる
2005/06/10
坑内を測量(計測)していたようである
 
2006/02/02
大型ライトを持っているので坑内の構造調査かと思われる

 
 
2006/06/19
目的不詳だが、四角い枠内が木の角材で埋められた
2006/11/日付不詳
最上部の四角いコンクリートの枠組みが撤去されて、H型鋼のフレームに取り換えられた
その下に、円形の蓋が入っていたらしい、やはり円形の枠があったことがわかる。
(これのみ、フィルムカメラによる画像)
さらにその前は…
2000年ころ

上階は建設会社の寮として使われていた


【追記】2021/02/23

小田急線地下化にともなう、同線の東北沢駅前広場の整備工事がほぼ終了し、駅への取付道路の入り口にあたる都道補助26号線の整備も進行中で、先ごろ行われた歩道のアスファルト舗装が、三田用水のサイフォンの立坑を覆う鋼板ぎりぎりのところまで行われている


手前が歩道。青い仮設フェンスが敷地境界。



上からみても、ぎりぎりで



フェンスの下から覗き込んでみると、鋼板は歩道のエリアに隅の部分に入り込んでいた。



今日お話しした区の方にうかがうと、この広場南の細長い土地は



小田急が整備するエリアとのこと。

結構高低差がある土地であり、どう収拾を付けることになるのか、興味深いし楽しみでもある。

【追記】2023/08

先日確認したら、立坑跡は地表面が植物に覆われていた。
深さ5mの坑の構造物を解体するとなると大作業になるが、そのような工事が行われた様子はないので、どうやら、単純に埋め殺したようである。