2018年1月14日日曜日

「駒場道」の新知見

■当方の…

Web ”Half Mile Project”で採り上げた

駒場道
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaMichi.htm

について、先日、そこでも「孫引き」している(「*4」)

堀切森之助・編「幡ヶ谷郷土誌」幡ヶ谷を語る会/H05・刊*

を読んできた。

* おそらく内容は同一と思われるが
 東京都渋谷区立渋谷図書館/S53〔1978〕・刊
 が初出で、標記のものは「復刻版」のようである

■同書の…

「五、道路・水路・交通機関」「l  道 」中の
「世田谷道(鎌倉街道)」の項(pp.35-)の末尾近くに、以下のような駒場道についての記述があった

執れ〔註:京王線幡ヶ谷駅前から南方向に向かう道〕は甲州街道開通後に造られた路ではあったらうが、古くから開かれてゐたであらうといふ事は、甲州街道からの分岐點の西角に幅八寸、厚さ六寸、高さ三尺程の「おほかみだに道」の古い石標があった事でも知る事ができる。…
 元来此の道は駒場道の本道では無い。それが地理的條件と時代の推移によって甲州街道開通以前から存在したであらうと推定される本道を、今は廢道同様の有様に変ぜしめて自ら隆昌を衿って居るが、これも寛文四年(一六六四年)八月以来代々木大上谷(狼谷)火葬場への道として、(新編風土記曰ふ。四谷西念寺勝興寺戒行寺麹町栖岸院心法寺五ヶ寺の拝領地、同上年茶毘所を造ると)多くの亡き人々の霊を送迎してゐるがため、その功徳によって本道以上に榮えたのでもあらうか。
」(p.38)

■これを図解すると…

以下のようになるようである。

東京逓信管理局「東京府豊多摩郡代々幡村」逓信協会/M44・刊
< https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Yoyohata-Toyo_CHOSON/Yoyohata-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html >
の抜粋に地名等を補入

■文中の…

「おほかみだに道」と刻まれた旧い石標。甲州街道と駒場道の交点付近、つまり京王線幡ヶ谷駅近くの地中に、今も眠っているのかもしれません。



【追記】2018/02/04

■今日…

地蔵窪から駒場道旧道を歩いてきた。
(旧駒場道と甲州街道との交差点の「子育地蔵」
 その西の「牛窪地蔵」については
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/02/post-619a.html
をご参照を。)



■甲州街道沿いの子育地蔵



地蔵堂
頂上に九輪を戴き、狭い不整形の敷地一杯に収めるなど、
設計、とくに構造計算に苦労したと思われるが、さすが「都会の地蔵堂」。
ただ、すでに水平方向に亀裂が発生していまっているし、頂上付近には、
鉄筋に対するコンクリートの被覆厚(かぶり厚さ)不足によると思われる錆が見える。
そろそろ、何らかのメンテナンスは必要だろう。



堂の東脇が駒場道の旧道(手前)
 
堂の前の歩道橋に登って甲州街道越しにみると
北方向にも道路が続いていたことがわかる
 
駒場道旧道に入る
「廃道」は免れたとはいえ、この部分の道幅はとりわけ狭い
 
京王線の旧地上線の跡を越える

 

 
駒場道新道との交差点
左方向が西原



2018年1月8日月曜日

【余録】藤原銀次郎の茶室「暁雲庵」

■当ブログの…

【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html

の末尾に触れたように、元王子製紙社長の藤原銀次郎の茶室「暁雲庵」が、父の墓所のある杉並区梅里の眞盛寺に移築されているらしいことが判明したことから、昨1月7日の墓参の折に参道右手にある茶室を参観してきた。

■能書きは…

ほどほどにしておくことにして、同山は、檀信徒以外は入山禁止


環状7号線から山門に通じる参道を東方向から

参道入口左にあるサイン

のこともあってか、ネット上では同山に興味を持たれている方も結構おられるようなので、茶室だけとはいえ、いわば「代参」。


山門やや西から
画面左端が本堂、右手が暁雲庵
参道からみた暁雲庵全景
外露地腰掛待合西面

同上東面


外露地から垣越しに見た暁雲庵
内露地から見た暁雲庵南東部
内露地の蹲踞
 
屋根と扁額
間違いなく暁雲庵
暁雲庵南面
同上南面西端
塵穴は角型。柱の下部のやや大きめの礎石と土台下の小さめのそれとの関係がよくわかる。

■冒頭の…

記事で少し触れたが、この暁雲庵。もともとは、三田用水沿いの港区芝白金今里町一一七番地の藤原邸内にあった。


M42測T05修測1 1/10000地形図 品川 抜粋

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.48.558N35.37.52.000/zoom/12/?data=showa-22

 藤原銀次郎は、いわば「茶〔道具〕敵」であったらしいサッポロビールの前身日本麦酒の社長を務めた馬越恭平などと同じく三井出身で、おそらく、三井不動産が世田谷区玉川にあった幽篁堂庭園跡をパークコート二子玉川*1として開発するにあたり、同地にあった暁雲庵を、三井寺〔みついでら〕こと、この眞盛寺*2が引き継いだのも「三井の縁」なのだろうと思われる。

*1 http://www.g-mark.org/award/describe/30553
*2 <http://www.geocities.jp/pccwm336/sub13.html>の同寺の項参照

2017年10月23日月曜日

「律令時代」の測量技術について

■既報の…

玉川上水/三田上水開鑿当時の測量技術について
http://mitaditch.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html

(以下「前編」という)のいわば追記ともいえるのですが、少々驚く内容なので、あたらしくアーティクルを起こすことにしました。

■今日…
「講座・日本技術の社会史 第6巻『土木』」日本評論社/1984年・刊
が届いたので、同書所収の

木全敬蔵「測量術」pp.332-344

をさっそく読んでみた。

■同稿では…
かつての、高低差の測量技術について、以下のように解説している。

「 高低差を求める方法は、原理的には、現在の水準測量と同じで、高低差を知りたい二地点にそれぞれに表を立てる。その中間に、二枚の板をT字に打ちつけ、縦板に墨を打って横板の上縁に直交する直線をひいたT定規のようなものをおく。縦線上に釘を打ち、垂球を下げて垂球をつるす糸と、縦線が一致すれば、横板の上縁は水平になる。横板の上縁にそって、表を視準し、横板の上線と同じ高さのところに印をつける。そして、二本の表の印の位置の差が高低差になる。
 以上述べた測量技術は、中国伝来(中国流測量術)のもので、表という測量用のポールと、間縄だけでかなり精度のよい土木測量、地籍測量を行うことができだ…」(p.337下段)


【参考図】


また、
「 直角を作る技術は簡単である。九章算術にピタゴラスの定理の証明がなされていて、辺長が3:4:5になるような三角形を作れば直角三角形になることは、算を学んだ者なら誰でも知っていた。」(同上段)

■では…
こういった技術が、いつの時代まで遡るのかというと、なんと、以下のとおり律令期の「算師」と呼ばれる測量を司る官吏(技官)のいた時代まで遡るようなのである。

「算師は、大学で算を学んで出身した者から任用されたのであろう。大学での算術のテキストには、『孫千・五曹・海鳥・九章・六章・緩衝・三関重差・周髄・九司』の算経が用いられ、なかでも、九章算術が最重要視され、これができない者は、他が出来ても不合格にされた。また、七三一(天平三)年からは、周韓算経を理解できない者は、叙位されず、式部省に留ることが許されるだけである。という制度が加わり、周韓と九章の二算経が必須科目になった 。
 九章算術には、田の面積計算・米と雑穀の換算・按分比例計算・輸送のこと、等々事務官算師に必要な算術のほかに、溝・堤の土工量の計算・ピタゴラスの定理のような技術計算が含まれている…」(p.334)


■この種の技術は…
中世期には公的機関での伝承が途絶えたものの、太閤検地の実施によって、全国規模で測量の需要が高まったために、それまでの間はいわば一子相伝のような形で伝承されていた技術が、中世末から近世初頭にかけて一気に普及したらしい。

■冒頭の…
手法は、前編の「三角定規型水平儀」に比べても、同じ視力/気象条件なら、2倍の範囲の勾配を一気に測れるわけで、後世の人間による線香だの提灯だのといった俗説を一気に吹き飛ばすような、非常に「エレガント」な手法といえよう。

【追記】

前編の「三角定規型水平儀」にも、別のメリットがある。

この方法によれば、表aに一定の高さ(例えば4尺)に目印を付け、水平儀bの側を上下させて表aの目印を視準するようにすれば、表aを単純に垂直に保持しておくだけで、bの側で高低差を割り出すことが可能となる。つまり、表aを保持する者にはさほど高度な技術は不要となり、場合によっては地面に突き刺しておけば済むので、そもそも、人の関与自体が不要となる。


 

2017年10月7日土曜日

明治・大正期の23区内区分地図

現23区内に限られますが

(公財)特別区協議会 のデジタルアーカイブに明治・大正期の区分地図がありました。


現23区内町村地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/choson_kubunzu_top.html

■とりえあず…

三田用水沿水路 系統


豊多摩郡代々幡町 M44郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Yoyohata-Toyo_CHOSON/Yoyohata-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html

荏原郡目黒町 T13
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Meguro-Eba_CHOSON/Meguro-Eba_CHOSON_kmview-zoom.html

豊多摩郡澁谷町 M44郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Shibuya-Toyo_CHOSON/Shibuya-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html

荏原郡大崎町 T15
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Osaki-Eba_CHOSON/Osaki-Eba_CHOSON_kmview-zoom.html

東京市芝區 M29郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home53files/15_12/tokyo15_12_kmview-zoom.htm

同 M44郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home53files/b15_05/banchi_tokyo15_05_kmview-zoom.htm

荏原郡品川町 T13
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Shinagawa-Eba_CHOSON/Shinagawa-Eba_CHOSON_kmview-zoom.html

 
■ついでに… 

玉川上水沿水路系統

豊多摩郡高井戸町 S05
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Takaido-Toyo_CHOSON/Takaido-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html

豊多摩郡和田掘町 S04
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Wadabori-Toyo_CHOSON/Wadabori-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html

(豊多摩郡中野町 M44郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Nakano-Toyo_CHOSON/Nakano-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.htm

豊多摩郡代々幡町 M44郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Yoyohata-Toyo_CHOSON/Yoyohata-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html

豊多摩郡淀橋町 大久保町 M44郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Yodobashi-Okubo-Toyo_CHOSON/Yodobashi-Okubo-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.htm

豊多摩郡千駄ヶ谷町
(なし)

東京市四谷區 M29郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home53files/15_05/tokyo15_05_kmview-zoom.htm

東京市四谷區 M44郵便地図
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home53files/b15_08/banchi_tokyo15_08_kmview-zoom.htm

 

 

2017年9月26日火曜日

「二ツ橋」起源

■地元にある…

三田用水に架かっていた「三角橋」については、相当前になるが、かなり徹底的に調べたこと
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita90.htm
があって、最終的にたどり着いた結論は、

「この橋のある場所の地名が
上目黒村字三角
だったかららしい」

というもの。

 また、この「三角」というのも、北の豊島郡代々木村、南西の荏原郡下北澤村に挟まれた三角形の場所という「そのまんま」の地名なので、手間暇をかけた割には「面白くもなんともない」結末になってしまっていた。

■三田用水の…

「名のある橋」については、この三角橋を除けば、名前の由来の想像が付くものが多いのだが、もう一つ、由来がわからない橋として、東大駒場の野球場の北、東急トランシェのバス停としても名前が残る
「二ツ橋」

東急トランシェ「二ツ橋」停留所
このバス路線については
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SankakuBus.htm
参照
があった。


■この橋も

三角橋


「昭和15年版 東京帝大一覧」(国会図書館・蔵〔NDLID:1466162〕)より

同様に、明治12年当時の図面をみても


国立公文書館・蔵 〔請求番号:公02470100〕
東京府下上目黒村駒場農学校門前道敷取広ノ件(抜粋)に青色矢印加筆
 何の変哲もない橋で、橋が2つ続いていたわけでも、橋が2つ並んでいたわけでもない。

三田用水の下北澤村取水圦方向から見た旧二ツ橋付近
右端の材木置き場下から青線のように奥の民家と樹木の間に流れていた
正面の道路が「旧駒場道」。茶色線が隠田(雙子)道(右手が三角橋、左手が隠田方向)

略旧二ツ橋上付近から、西方の中ノ橋、三角橋方向をみる



都市計画東京地方委員会・編「都市計画東京地方委員会常務委員会議事速記録〔第8号〕」同委員会/S11-13・刊 附図 <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207598/75>
「東京都市計畫代々幡町道路第十五号路線變更道路平面圖」に、以下の補入
黄色線が隠田道/雙子道。隠田道…が三田用水路(青線)渡る橋(赤矢印)が「二ツ橋」
*「隠田道/雙子道」については、別ブログの
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/10/post-6876.html
 参照 


■ところが…
先日、
東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/昭和45年9月・刊
のコピーを、何気なく眺めていたところ、

同書所収の鏑木家文書のうちpp.240-241の
「安政 四年 五月 三田用水路橋修理入用書」
つまり、三田用水に架設されている橋の補修に要する費用を幕府に報告する文書に、以下の記述があるのを見つけた。

同所*〔ヨリ〕**
 御場内***ニ而字三角 巾五尺
 一、板橋     深サ壱丈弐尺
 此金弐拾弐両三分 長三間半


 同所〔ヨリ〕 五
 同所ニ而中ノ杉  巾八尺
 一、石橋     深サ壱丈壱尺
 此金四捨参両弐分 長壱丈


 代々木村地内
 字ニツ榎
     巾五尺五寸
 一、石橋     深サ七尺五寸
 此金弐拾両三両  長七尺五寸」


* 同所=元樋〔取水圦〕を指す
**〔ヨリ〕は原文ゟ
*** 将軍家の雉や鶉の狩場である駒塲狩場
  http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaWater.htm
  を指す。
  那須皓「代々木村の今昔」(柳田國男・編「郷土會記録」大岡山書店/T14刊 所収)によれば
  そのために「わざと草深くしてあった。從って折々追剥ぎの噂など聞いた。」(p.121)という。

■結局…
この「二ツ橋」も、三角橋同様に「二ツ榎」と呼ばれる場所に架設されている橋なので、おそらく当初は「二ツ橋」。それがいつのころか縮まって「二ツ橋」と呼ぶようになったのだろう。

【追記】

■ちょっと気になって…
東京府志料(M07) 水利志 の三田用水の条をディスクから引っ張り出してみた。( は引用者による改行を示す)

三田用水 
水源ハ第七区六小区下北沢村ニテ玉川上水ヲ分派シ、第八大区三小区代々木村ヨリ七大区五小区上目黒村・八大区三小区中豊沢村・七大区一小区下渋谷村・同五小区中目黒村・同一小区三田村・白金村・同五小区上大埼村、同一小区白金台町・今里村・同五小区下大埼村・ 同二小区北品川宿ニ至リテ目黒川へ入ル、
○延袤二里半余巾一間ヨリ二間半ニ過キス、深凡三尺
○昔八三田上水ト唱ヘテ三田芝ノ辺へ引キ注シ水道ナリ、然ニ享保七年十月此上水ヲ停メ元圦ヲ閉塞セシニヨリ、其余流ヲ仰キシ村々用水ナキ事ヲ憂テ官ニ訴へ、上水ノ旧渠ヲ用ヒテ故ノ如ク玉川上水ノ流ヲ分チ、荏原郡馬込領谷山村・上中下目黒村・品川領北品川宿・上下大埼村・世田ケ谷領代田村・麻布領白金村・今里村・三田村及ヒ豊嶋郡麻布領中下渋谷村凡テ十三村ノ用水トス。
〔橋梁〕
土橋二 下北沢村ニアリ、共ニ長二間巾五尺 板橋 上二同シ、馬場橋長二間半巾五尺 
石橋 代々木村ニアリ、二ツ橋長一間巾五尺 
板橋 上目黒村ニアリ、三角橋長二間半巾五尺 石橋三 上ニ同シ、一ハ中ノ橋 長壱間壱尺巾壱間、一ハ長四尺巾二間、一ハ長四尺巾三間 
石橋二 下渋谷村ニアリ、一ハ目切板橋長四尺巾三間、一ハ長四尺巾二間 
石橋 三田村ニアリ、長四尺巾一間 板橋 上二同シ、長壱間半巾四尺、土橋 上ニ同シ、長壱間半巾四尺 
土橋二 上大埼村ニアリ、一ハ長一間巾四尺、一八長壱間半巾四尺 石橋 上ニ同シ、永峯橋長五尺巾四尺 
石橋 今里村ニアリ、長二間巾壱間半 土橋二 上ニ同シ、共ニ長五尺巾四尺 
埋樋 白金台町ニアリ、長三十間巾三尺 
埋樋 白金猿町ニアリ、長九十四間巾二尺五寸 桝四 上ニ同シ、共ニ三尺四方 
土橋二 北品川宿ニアリ、小関耕地橋共ニ長三尺巾四尺


「あるいは…」と思ったとおり、明治初期の農学校正門前にあった駒場橋は、本来は「中ノ橋」
先の安政期の文書に照らすと、二ツ橋同様に、「中ノ橋」が縮まって「中ノ橋」になったようである。

北品川宿に残った溜井

■当ブログの

下大崎村/北品川宿の溜井(池)新田(上大崎村の溜井(池)新田・続編)
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/09/blog-post_24.html
上大崎村の溜井(池)新田
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post_25.html

をご覧になった「あるく渋谷川入門」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/riverandsongs/
の梶山公子氏から、文政11(1828)年の「品川図」
         (品川町役場・編「品川町史附図 『品川図 文政11年』」同/1932・刊)
( http://www002.upp.so-net.ne.jp/mitayousui2016
中、2016年10月15日付「三田用水の流末を『文政十一年(1828)品川図』で歩く」 の冒頭の図
に、溜井が2か所描かれていることをご教示いただいた。

 その溜井の位置は、↑の図の
1 中央やや下の「三田用水」との注記の「水」のあたり
2 中央やや右のほぼ最下端から北西に向かう道路の右(東)脇の小さな四角形
である。

〔参照〕
https://drive.google.com/open?id=1IgnBuX_r2CeAxAiTmaNPx-LmJ18&usp=sharing

■文政11年…
といえば、三田用水が開鑿された享保9(1724)年からすでに1世紀が経過した時期。

 もともとが「不安定な雨水〔天水〕に依存する溜井に水利をたよりたくない」からこそ、農民は用水を希み、領主(といってもこのあたりほとんど天領だが発想は同じはず)も、領地の生産力を上げて年貢の収入を増やすために、自ら用水を開鑿したり、その工事費用を下付したりしたわけで、用水ができれば、上大崎村の例のように、従来の溜井は水田に転換するのがむしろ自然で、現に、標記のページで指摘した都合4か所の溜井は、この文政期には、農地に転換済みである。

■とはいえ…
いくら用水ができても
A 用水路まで遠いなどの事情から、そこからの水利が得られない
B 用水が近くても高低差などから引水できない
といった場合には、依然溜井*に頼るしかない。

*大正期の地図には、これらのパターンで残ったのかもしれない溜井が、中目黒村あたりに見える(ただし、それ以降だと、養魚池だったり果ては釣堀だったりと「油断がならない」)。

また、逆に
C 崖線から非常によい湧水が出るが、冷たすぎるので一旦池に溜めて温めてから使う必要がある
とかいった、いわば積極的な事情があって溜井が残される可能性もあって、ご教示いただいた2か所も、場所柄、この最後のパターンの可能性もあるようにも思えた。

■そこで…
「東京市高低図」
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl1003-01-38.pdf
からこの地域を抜粋した図に、問題の溜井2か所の大体の位置をプロットしてみた。


青●が、既報の、余水路に変わった溜井の位置


 この図から判断すると、
溜井1には、上記のB(そのため、赤矢印の方向からの水利に依存するしかない)
溜井2には、上記のC
のパターンが当てはまりそうである。

■この…
溜井。かつてこの近辺にあったものに較べると、規模が非常に小さく、本格的な灌漑用として機能できたのかは、やや疑わしい。

 さりとて、用水沿いによくあった「野菜洗い場」
           【資料映像】

長野県伊那市

にしては大きすぎるのも確かではあるが。

2017年9月24日日曜日

下大崎村/北品川宿の溜井(池)新田(上大崎村の溜井(池)新田・続編)

■先の…
上大崎村の溜井(池)新田
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post_25.html
で引用した、高島教授の論文にも、上大崎村のそれと同じ 溜井→新田 の転用については、他地域での類例はいくつか紹介されているのだが、あるいは、三田上水→三田用水の流域にも、類例があるのではないかと、気が付いた。
 三田水の開鑿にあたっては、後の組合村である14宿村からの幕府への陳情があったといわれており、それには、上大崎村と同様の水利の悩みをかかえていた宿村が他にもあったと想像できるからである。

■そのためには…
まずは、遅くとも三田水時代に溜井があった場所を確認する必要がある。
 とはいえ、享保期以前については、後の沿革図のような高精度の地図は望みようがないうえ、下北沢村の取水圦から下目黒あたりまでの範囲についての地図らしい地図は皆無といってよい。
 従って、下目黒から北品川までの区間に限られることになるが、先の江戸方角安見図をみると、下大崎村や北品川宿に、上大崎村のそれと同じような溜井が描かれていることがわかった。

                                   
国会図書館・蔵「江戸方角安見図 乾」延宝8〔1680〕年(NDLID:2575023)
上から第2図・第1図

 
ただし、この安見図は切絵図の原型(の1つ)といわれている地図でもあり、みてのとおり、それら相互の位置関係が掌握しにくいので、もう少し広域なものを、ということで、同じく国会図書館のデータベース中から「江戸図 正徳四年」なる地図を見つけ出した。


 


■この地図は…
描かれた時期が、正徳4(1714)年と、安見図よりはやや後れるものの、三田水の開鑿後かつ閉止前の期間中なので理想的で、抜粋した地図中に、既説の上大崎村のそれを含めて4か所の「池」と表示された場所が、上水の右(南)岸、つまり上水と目黒川の間に見つかった。

 それらの溜井と、後の三田水の分水路を重ねてみると、概略下図のようになる。 

 このように、4か所の溜井は、すべて、後の分水路上にあって、このことから、三田水の分水路は、これらの溜井に従前から水を供給していた小河川に、三田水からの分水を接続することによって設けられたことなる。
 と、いうよりも、これらのうちいくつかは、「上水記」によれば合計8か所あったとされる三田水時代の余水吐*、つまり、取水圦の故障や豪雨などによって上水路の水位が上がり過ぎたときに、これを排水するための水路として、もともと機能していたのではないかと思われる。
 
*上水記「三田用水の事」
北澤村にて三尺四方の水口より上水道取立、北澤むら・代々木村・中渋谷村・中渋谷村・三田村・上目黒村・中目黒村・白金村・大崎村上水道掘割、築土手八ケ所築、土手上無蓋戸樋八ケ所、惣貯枡白堀の上くゞり樋野方吐八ケ所、大崎猿町より埋戸樋枡、貳本榎・伊皿子通り聖坂・三田町・松本町・新馬場同朋町・西應寺町角枡迄。大通り上水道、野方白堀・築土手・溜枡・惣戸樋枡一式。(品川町史・中p.485の訓み下し文による)
 
■既存の…
河川の谷頭部に、用水路からの水路を接続することによって、分水路あるいは余水吐として機能させることができれば、水路のために掘削する土の量や新たに徴用しなければならない用地の面積を減らすことができるうえ、水路の測量・設計の手間暇も大幅に節減できる。
 
 上図の分水路については未検討ながら、下北沢村の取水圦から数えて2つ目の溝が谷分水について、かつて地面の勾配を調べたことがあるので、その結果を以下に示すことにする。
 


緑色の一点鎖線のところにあった自然河川に三田上(用)水からの水路を接続したことになる。
 
【参考】昭和3年に、溝が谷分水が廃止された当時の周辺地域の公図
 
左上の隅が三角橋
 
【追記】
 
寛永江戸全図〔伝1643〕
の右下(南方)を「眺めて」いたら、前記の、
・妙円寺脇分水下流の雉子宮神社向かいの溜井
・余水路下流の北品川宿の溜井
の場所に、やはり溜井と思しきものが描かれていることがわかった。
(明暦江戸図 〔伝1657〕
もほぼ同じ。)
 
早速、詳細な画像を探してみると
 

さらに、右から約4分の1の位置に、後の奥平家の屋敷の南端にあったと思われる池も見える

 地図というより絵図なので、断定はできないのだが、とりわけ、東側の余水路下流の北品川宿の溜井は、先に見た安見図のそれに比べて、はるかに規模が大きいように見える。
 
 この三田水の余水路のいわば起点である白金猿町は、三田水時代、ここから先、北は金杉橋南の西応寺周辺、南は東海道の北品川宿南端までは、暗渠〔伏樋〕で給水していたため*、ほぼ絶対に余水吐〔野方吐〕が必要な場所なので、この余水路には、三田水時代にも、ある程度定常的に水が落とされていたことになる。
 
*〔通称〕正徳上水図(部分)
 
 そのため、三田水の開鑿後は、この寛永図時代ほどの規模の溜井は必要なくなったのではないかとも思われる(もちろん、あくまで水源が「余水」吐なので、いわば「保険」として、ある程度の規模の溜井は残す必要があったのだろう)。
 
〔参照〕