2017年9月1日金曜日

三田用水のミッシング・リンク解消〔 その3:駒場農学校〕

■当方のWeb…
Half Mile Project 調査サブノート:駒場狩場と三田用水
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaWater.htm
で触れたように、
「江戸の上水と三田用水」*1によれば、明治40年2月26日付けで用水組合が東京府に提出した報告書には、組合各村・水車以外の「用水ヲ使用スルモノ」として、
一 帝国大学農科大学
一 東京砲兵工廠目黒火薬製造所
一 大日本麦酒株式会社
一 高輪御用邸
一 男爵岩崎弥之助

が挙げられている。(P.191)

*1 三田用水普通水利組合「江戸の上と三田用水」同組合/昭和59年9月30日・刊(以下「江戸三田」という)

【追記】
駒場狩場については

目黒区守屋教育会館郷土資料室「昭和六十二年度企画展『将軍の鷹狩りと目黒』報告」多摩のあゆみVol.51pp.87-(多摩中央信用金庫/S63/05/15・刊)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1392015100/1392015100100010/tamanoayumi051_2/?p=1

参照 

■このうち…

「帝国大学農科大学」(現在の東大教養学部、駒場公園(旧前田邸)、東大駒場リサーチキャンパスにまたがる地域に、明治11年に設立された「駒場農学校」の後身で、現在の東京大学農学部などの前身)への三田用水の分水口については、
 上記の「江戸三田」によれば、明治16年ころの「三田用水取調表」(pp.47-51)中「沿革」の項に
明治九年中、荏原郡上目黒村字駒場勧農局ニ於テ、分水口御取設二相成タリ。然ルニ元玖樋口ハ依然旧ノ儘ナレバ、田場用水ノ不足ナルヲ恐レ出願ノ上、水行速カナラシムル為メ元玖樋口象鼻へ三寸ノ坑木ヲ打チ立ルコトヲ許可ニ相成タリ。
との記述があるとのことから(pp.49-50)、この農科大学への引水は、明治9年に、当地が勧業寮の牧場だった当時、用水路に新たに分水口を設置して行われたものであることがわかる。

■この分水については…

勧業寮より荏原郡上目黒村地内駒場野牧場へ玉川上水より分水の掛合につき回答」(M08) という文書の添付図面


東京都公文書館・蔵 [D352‐RAM:607.A5.03]
 下が北。赤矢印(引用者補入)の先が、勧業寮牧場用分水口

グレーで塗られている官有地である牧場敷地に食い込む白抜きの4か所の谷地は、
この時点では民有地だったことがわかる。〔後述〕



によって、この「勧業寮分水」が、三角橋から駒場橋に向って4分の3ほどの位置に設けられたことが判明していた。

■問題は…

牧場時代はともかく、駒場農学校開校後に限っても、この三田用水の水を、どこにどう使っていたのかにあった。

 東大農学部の歴史-歴史写真館
 http://www.a.u-tokyo.ac.jp/history/gallery.html
の「ケルネル田圃」の項に

駒場の水田は、駒場野の3つの谷に作られた谷地田で、現在、駒場野公園に残っている水田は、敷地南側の谷に作られたものである。この水田の潅漑水は隣接する湧水池(註・駒場野公園内の池)から、他の水田は三田用水から潅漑水をとっていた。
との記述があるのは見つけたのだが、どうも一つ「すっきり」しないものがあった。

 上図でもわかるが、この農学校内の谷地は4か所ある。



農商務省農務局「駒場農學校一覧」同局/明治17年10月・刊
〔国会図書館・蔵[NDLID:812768]〕中の構内図に加筆

 東から西に向かって順に、仮にF-H-M-Kと名付けると、谷地H〔「本邦農場」と書かれている〕は、水田ではなく畑である。近世にここが将軍家の「駒場狩場」だった時代の絵図*2 でも、この谷地Hだけは「畑」と注記されている勿論、これだけの広さの谷地なのだから、かつては湧水もあって、その水が台地を削ったのだろうが、それが枯渇したために畑として使われるようになったのだろう)

*2  ・「駒場野御成之圖」年代不詳 (筑波大学図書館・蔵
    https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B15/B1554514/1/normal3/10076879841_A.html
   ・「駒場野古地図」天保10(1838)年頃(川井家文書)
   「上目黒村繪圖」寛政年間〔下図〕 

      
 


   







  




高精細画像は、東京都公文書館・蔵の、こちら

など、多数

■結局…

残る、谷地F、谷地M、谷地Kが、水田だったことになる。
 そうだとすると、前記の「歴史写真館」の記述にしたがえば、谷地Kが「湧水池」(現在の駒塲野公園内の「大池」)の水による灌漑によるほかは、谷地F、谷地Mともに三田用水の分水で灌漑されていたことになってしまうが、下図のとおり、谷地Fは、三田用水からの分水口(推定左上青矢印)から「あまりに遠すぎる」のである。



アメリカ陸軍 Map Service 1946年作成の「TOKYO AND ENVIRONS,SHEET 11“SETAGAYA”」http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-11.jpg
(抜粋)と明治17年の構内図との重ね図。



   
   

■そういった問題が…

今回入手した、
 
筑波大学附属中・高等学校創立四十周年記念行事実行員会・編「駒場水田の誌」同校/昭和62年10月・刊
 
によって、クリアになった。
 
■同書中…
 
熊沢喜久雄「駒場における米作肥料試験」(pp.47-52)
 
によると
 
「 駒場野が開拓され移転を完了した農学校(駒場農学校)が開校式を挙げたのは明治十一年(一八七八年一月二十四日である。↓
その時の農学校用地の総面積は一六五、二六七坪(五四・八三ヘクタール)であり、その大部分は畑地であり、水田は三、六六一坪(一・二一ヘクタール)を占めるに過ぎなかった。↓
この水田は関東平野によく見られるような台地部に挟まれて存在するいわゆる谷地田で、↓
 構内の↓
ほぼ中央部を南北に↓
また↓
 南側を東西に↓
かけて存在していた。↓
潅漑水は↓
前者については『玉川ノ分流ニシテ駒場ノ西四十キロメートルノ地ヨリ引キ』↓
後者は構内の池を水源にしていた。↓
また東の端に別の湧水を水源とする若干の水田が存在していた。これは間もなく養魚池となる。↓

水田は約十六メートルの幅のものが並び順に潅漑をされていた。↓
 前者は約二〇の区画が二四〇メートルの長さに(農学叢誌、二巻、明治十八年)、↓
 後者は約三〇の区画が三〇〇メートル(推定)の長さにわたり、↓
 また養魚池になった所には約一五の区画があった。
」(P.47。↓は引用者挿入の改行)
 
 これを、前図にあてはめると
・谷地M:「構内の…ほぼ中央部を南北に…かけて存在していた」水田
  今の京王井の頭線駒場東大前駅西口前、マルカ蕎麦店脇に遺る水路



     の前身は
  三田用水の水で灌漑されており
・谷地K:「構内の…南側を東西に…かけて存在していた」水田
  今の「ケルネル田圃」は
  構内の池を水源とし
・谷地F:構内の「東の端」の水田、
  今の通称「一二郎池」*3
  「別の湧水」を水源とし、後に養魚場としてつかわれていた
ことになる。
 
 つまり、前記の分水口によって分水された三田用水の水は、谷地Mの、今の野球場のレフトフェンス前あたりにあった(上記「重ね図」参照)谷頭部「だけ」に接続されていたことが判明したのである。
 
 もっとも、この谷は、ここが将軍家による主として鶉狩りが行われていた駒場狩場の時代から水田であったことは前記の近世の各絵図から明らかであるが、そのころはまだ三田用水からの分水はなかったこと、また、その給水がおそらく昭和初期に途絶えてから長期間が経過した現在でも少量とはいえマルカ蕎麦店脇に水が流れていることから見ると、この谷地Mの水田は、もともとはその谷頭部にあった湧水で灌漑されていたのだろうと想像される。*4
 
*3 正式には「駒場池」
  https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/tokei/chosa_hokoku/midorijittai.files/houkokusyohp250.pdf

*4 豊島区立郷土資料館「2010年度企画展 豊島郡の村絵図」〔図録〕同区/2010年10月22日・刊
  のp.9に掲載されている「上渋谷村・中渋谷村・代々木村・幡ヶ谷村・角筈村・柏木村・大久保村・中野村辺絵図」の最下端に「駒場原」が描かれていて、場内の左(西)寄りに2か所の池がみて取れる。

高精細画像は、東京都公文書館・蔵の、こちら


上端中央が「紀伊殿」と「長谷川図書守」、下端中央の赤塗が「氷川明神」

 
 下(南)側の池が、その位置からみて、現駒場野公園内の大池であることはまず間違いない。
 問題は、上(北)側の池で、もともと、この絵図は代々木村から北の豊島郡内を描く目的で制作されたもので、駒場原の大半を占める荏原郡については、参考程度に描いたものと思われるので、それほどの精度は期待できない。
 しかし、少なくとも、池が駒場原の概ね西寄りにあることを示そうとはしているのだろうし、さらには「二ツ橋」の南と明治期の谷地Mの谷頭と位置が整合しているので、そこにあったはずの池と考えるのが素直だろうし、そう解釈しても矛盾もない。
 なお、「駒ヶ原繪圖」によると、この辺りに「『池』頭御立場」があったことになる。
 もっとも、この絵図に描かれているそこからの水路については、谷地Mの明治初期の谷筋の姿とは整合しないのだが、もともとが「ずけずけ」と調べに入れる場所ではないために「ともかくも、わかる範囲で、水が空川に落ちている」ことを示す意図だったか(ロシアの諺「遅れて来る方が、来ないよりいい」を応用すれば「多少まちがったことでも書いてある方が、全く書いてないよりはいい」と後世の我々にとってはいえる)、さらには、これは全くの想像だが、あるいは、この池の水は、もともとたとえば谷地Hに落ちていて、その後、御狩場としての使い勝手を良くするために、谷地Mの原型にあたる小川の上流に付け替えたのかもしれないのである。
 
 ■幸いなことに…
 
この谷地Mの水田については、様々な過去の記録が残っている。
 
●ひとつは、(他の谷地と同様)この水田は、駒場狩場→勧業寮駒場牧場→勧農局駒場農学校という変遷を経た時点では「官有地」には含まれておらず、その後の明治12年ころ、所有者であった田中頼庸から買い上げられたときの買収記録中に図面がある。
 
駒場農学校敷地續民有地買上義伺」国立公文書館・蔵(ID:M0000000000000125461_0086)
 
上記「…伺」添付図面を画像調整
 
 
●いま一つは、明治後期の写真である。
 
小川一真・編「東京帝国大学 1904」小川写真製版所/明治37年8月・刊
 
(国会図書館・蔵 <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813162/122>)
 
「農科大學見本園」と題する写真を画像調整
(手前の台地上はクワと推定される)
画面奥の稜線は、下北澤村(現・世田谷区北沢)の仮称「池ノ上台地」
 
 ●そして、最後が、三田用水の水質データである。

安富六郎「<三田上水紀行> 5.用水の定量分析」
(山崎農業研究所「農業文化マガジン『電子耕』」No.205-2007.03.22号
http://melma.com/backnumber_152188_3596383/
所収)

では、明治15年の夏に駒場農学校で、「あの」ケルネルらが構内の湧水のそれと共に行った、三田用水からの引水の水質を「10項目にわたって、ppm(百万分の1)の単位で分析」した結果*4を引用したうえ、平成13年の羽村堰のそれと対比して

(当時の)「三田用水は現在の多摩川の水と比べて、格段に良質であった」と結論している。

*4 なお、引用元の、熊澤喜久雄「駒場の水田と米作肥料試験」(肥料化学10号pp.59-91)
      http://www.hiryokagaku.or.jp/data_files/view/273/mode:inline
  記載の、「中央部の水田の灌漑水」の分析結果は、同論文のp.71

【追記】

ほぼ同時期の、玉川上水や神田上水、千川上水の水質調査データが、ここ


「東京上水試驗」藥學雜誌/1886 巻 (1886) 55 号
https://ci.nii.ac.jp/naid/110003614271

にあった。

【余談】
「ケルネル田圃」の水源について

冒頭に記した「駒場水田の誌」中

彰岡 彰「駒場の水田について」
に、現在の駒塲野公園の整備に関して、以下のように解説されている。

(1)潅漑水について
…(ケルネル田圃の)水源の池は水を涸すことがなかった。以前はクロマツの生えている近くの池の底から湧水があったと聞いている。また昭和三十年代前半頃までは井の頭線の北側(農学部の畜産の畜舎があった近く、現在は留学生会館の建物がある)には滾々と湧き出ている泉もあり池に流れこんでいた。
(駒場野)「公園を造成するにあたり、昭和六十年に稲刈り後翌年春までに池も大改修がなされ、底の沈殿汚物は全部除去し、深いと危険であるということで以前より浅くなり、周囲は自然石で石垣が組まれ、公園としての景観がつくられた。それとともに家庭排水は、潅漑用水の中には入らなくなった。池には公園内に降った雨水、体育館内のプールからだけの水になり、水質は改修前に比べると比較できない程良くなった。なお、雨量が少ない時のため、斜面の芝生の地下に約三〇〇m3の水槽が作られていて、池の水が著しく減った折にはポンプで吸い上げる仕組みになっている。
」(以上p.64)

■しかし…

これには、補足が必要である。

 前掲明治17年構内図からも明白であるが、現在の京王井の頭線の線路の北に接している留学生会館の場所が水田であったとことは確かである。
 しかし、ケルネル田圃の大元の水源は、もともとは、そこよりはるかに北、今の東大リサーチキャンパス(東大先端技術/生産技術研究所)のほぼ中央部にあり(明治17年構内図参照)、昭和8年に帝都線(計画時は城西鉄道*5、現在の京王井の頭線)の築堤の敷設によって、その上流部と下流部の谷地の間の水路が埋め立てられたようではある。
 しかし、この帝都線の工事にあたっては、この谷地との交差部分に、線路の北側から南側に水を落とすため、直径「1尺4寸」(約40センチメートルの「土管」を埋設して暗渠化された水路が敷設されている。

東京都公文書館・蔵〔[16]府昭07-111,[D]D828〕
「渋谷附近線路及工事方法変更【予算新旧対照表(4)】東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)」
「東京郊外鉄道株式会社 自零哩零鎖 至零哩四十七鎖五十五節 間線路實測平面図」 を
抜粋→白黒反転→赤字補入

  そして、少なくとも谷地Kの暗渠は、現在でもやや形を変えて残っているようなのである。

 なぜなら、下の図は、東大が、2004年(平成16年)ころ、工事の発注にあたり、入札参加業者への情報提供のために公開していた図面のうち「東京大学(駒場Ⅱ)駒場オープンラボラトリー施設整備事業」「[資料4]設備系統インフラ図」のうち「4-3-2配水管配置図」という図面であるが…

青線が後述の雨水ライン
 この図面の左下(南東)の隅には、以下のような注記がある。
線路ができたため線路下に管路を敷設した
 池への流入については、目黒区からの要請があり、了解済み
  つまり、この図によれば、東大リサーチキャンパスの略東端部の雨水は、直径60センチのおそらくヒューム管によって、線路南の駒場野公園の大池に流下していることになる。

 つまり、ケルネル田圃は「公園内に降った雨水、体育館内のプールからだけ」灌漑されているわけではなく、ちょうど明治17年当時のように、リサーチキャンパスの雨水によっても灌漑されていることになる。

*5 城西電鉄→澁谷急行電鉄―合併→東京郊外鉄道(旧・山手急行電鉄)→帝都電鉄 と会社名や会社自体が変遷している。                                                   
 


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