2017年9月26日火曜日

「二ツ橋」起源

■地元にある…

三田用水に架かっていた「三角橋」については、相当前になるが、かなり徹底的に調べたこと
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita90.htm
があって、最終的にたどり着いた結論は、

「この橋のある場所の地名が
上目黒村字三角
だったかららしい」

というもの。

 また、この「三角」というのも、北の豊島郡代々木村、南西の荏原郡下北澤村に挟まれた三角形の場所という「そのまんま」の地名*なので、手間暇をかけた割には「面白くもなんともない」結末になってしまっていた。

*高崎経済大学の西沢淳男教授の

「関東代官竹垣直道日記 第3篇」(同大「地域政策研究」15巻4号pp.132-166)

中、p.148(pdfファイルのp.19)の、旧暦・嘉永3(1850)年1月21日、将軍徳川家慶の駒場狩場への御成の折の条の冒頭に、
五っ時比出立、駒場野相越、三角野末内之辺ゟ中丸(平出)御立場大松下出ル
との記述があることから、この「三角」が、一般的に知られていた地名だったらしいことがわかる。

 【追記】

駒ヶ原繪圖〔抜粋〕 山下和正氏・蔵
略左上の丸いハイライトが「三角」
略中央の四角いハイライトが推定「中丸御立場」

 

■三田用水の…

「名のある橋」については、この三角橋を除けば、名前の由来の想像が付くものが多いのだが、もう一つ、由来がわからない橋として、東大駒場の野球場の北、東急トランシェのバス停としても名前が残る
「二ツ橋」

東急トランシェ「二ツ橋」停留所
このバス路線については
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SankakuBus.htm
参照
があった。


■この橋も

三角橋


「昭和15年版 東京帝大一覧」(国会図書館・蔵〔NDLID:1466162〕)より

同様に、明治12年当時の図面をみても


国立公文書館・蔵 〔請求番号:公02470100〕
東京府下上目黒村駒場農学校門前道敷取広ノ件(抜粋)に青色矢印加筆
 何の変哲もない橋で、橋が2つ続いていたわけでも、橋が2つ並んでいたわけでもない。

三田用水の下北澤村取水圦方向から見た旧二ツ橋付近
右端の材木置き場下から青線のように奥の民家と樹木の間に流れていた
正面の道路が「旧駒場道」。茶色線が隠田(雙子)道(右手が三角橋、左手が隠田方向)

略旧二ツ橋上付近から、西方の中ノ橋、三角橋方向をみる



都市計画東京地方委員会・編「都市計画東京地方委員会常務委員会議事速記録〔第8号〕」同委員会/S11-13・刊 附図 <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207598/75>
「東京都市計畫代々幡町道路第十五号路線變更道路平面圖」に、以下の補入
黄色線が隠田道/雙子道。隠田道…が三田用水路(青線)渡る橋(赤矢印)が「二ツ橋」
*「隠田道/雙子道」については、別ブログの
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/10/post-6876.html
 参照 


■ところが…
先日、
東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/昭和45年9月・刊
のコピーを、何気なく眺めていたところ、

同書所収の鏑木家文書のうちpp.240-241の
「安政 四年 五月 三田用水路橋修理入用書」
つまり、三田用水に架設されている橋の補修に要する費用を幕府に報告する文書に、以下の記述があるのを見つけた。

同所*〔ヨリ〕**
 御場内***ニ而字三角 巾五尺
 一、板橋     深サ壱丈弐尺
 此金弐拾弐両三分 長三間半


 同所〔ヨリ〕 五
 同所ニ而中ノ杉  巾八尺
 一、石橋     深サ壱丈壱尺
 此金四捨参両弐分 長壱丈


 代々木村地内
 字ニツ榎
     巾五尺五寸
 一、石橋     深サ七尺五寸
 此金弐拾両三両  長七尺五寸」


* 同所=元樋〔取水圦〕を指す
**〔ヨリ〕は原文ゟ
*** 将軍家の雉や鶉の狩場である駒塲狩場
  http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaWater.htm
  を指す。
  那須皓「代々木村の今昔」(柳田國男・編「郷土會記録」大岡山書店/T14刊 所収)によれば
  そのために「わざと草深くしてあった。從って折々追剥ぎの噂など聞いた。」(p.121)という。

■結局…
この「二ツ橋」も、三角橋同様に「二ツ榎」と呼ばれる場所に架設されている橋なので、おそらく当初は「二ツ橋」。それがいつのころか縮まって「二ツ橋」と呼ぶようになったのだろう。

【追記】

■ちょっと気になって…
東京府志料(M07) 水利志 の三田用水の条をディスクから引っ張り出してみた。( は引用者による改行を示す)

三田用水 
水源ハ第七区六小区下北沢村ニテ玉川上水ヲ分派シ、第八大区三小区代々木村ヨリ七大区五小区上目黒村・八大区三小区中豊沢村・七大区一小区下渋谷村・同五小区中目黒村・同一小区三田村・白金村・同五小区上大埼村、同一小区白金台町・今里村・同五小区下大埼村・ 同二小区北品川宿ニ至リテ目黒川へ入ル、
○延袤二里半余巾一間ヨリ二間半ニ過キス、深凡三尺
○昔八三田上水ト唱ヘテ三田芝ノ辺へ引キ注シ水道ナリ、然ニ享保七年十月此上水ヲ停メ元圦ヲ閉塞セシニヨリ、其余流ヲ仰キシ村々用水ナキ事ヲ憂テ官ニ訴へ、上水ノ旧渠ヲ用ヒテ故ノ如ク玉川上水ノ流ヲ分チ、荏原郡馬込領谷山村・上中下目黒村・品川領北品川宿・上下大埼村・世田ケ谷領代田村・麻布領白金村・今里村・三田村及ヒ豊嶋郡麻布領中下渋谷村凡テ十三村ノ用水トス。
〔橋梁〕
土橋二 下北沢村ニアリ、共ニ長二間巾五尺 板橋 上二同シ、馬場橋長二間半巾五尺 
石橋 代々木村ニアリ、二ツ橋長一間巾五尺 
板橋 上目黒村ニアリ、三角橋長二間半巾五尺 石橋三 上ニ同シ、一ハ中ノ橋 長壱間壱尺巾壱間、一ハ長四尺巾二間、一ハ長四尺巾三間 
石橋二 下渋谷村ニアリ、一ハ目切板橋長四尺巾三間、一ハ長四尺巾二間 
石橋 三田村ニアリ、長四尺巾一間 板橋 上二同シ、長壱間半巾四尺、土橋 上ニ同シ、長壱間半巾四尺 
土橋二 上大埼村ニアリ、一ハ長一間巾四尺、一八長壱間半巾四尺 石橋 上ニ同シ、永峯橋長五尺巾四尺 
石橋 今里村ニアリ、長二間巾壱間半 土橋二 上ニ同シ、共ニ長五尺巾四尺 
埋樋 白金台町ニアリ、長三十間巾三尺 
埋樋 白金猿町ニアリ、長九十四間巾二尺五寸 桝四 上ニ同シ、共ニ三尺四方 
土橋二 北品川宿ニアリ、小関耕地橋共ニ長三尺巾四尺


「あるいは…」と思ったとおり、明治初期の農学校正門前にあった駒場橋は、本来は「中ノ橋」
先の安政期の文書に照らすと、二ツ橋同様に、「中ノ橋」が縮まって「中ノ橋」になったようである。

北品川宿に残った溜井

■当ブログの

下大崎村/北品川宿の溜井(池)新田(上大崎村の溜井(池)新田・続編)
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/09/blog-post_24.html
上大崎村の溜井(池)新田
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post_25.html

をご覧になった「あるく渋谷川入門」
http://www17.plala.or.jp/shibuyariver015/
の梶山公子氏から、文政11(1828)年の「品川図」
(品川町役場・編「品川町史附図 『品川図 文政11年』」同/1932・刊)
( http://www17.plala.or.jp/mitayousui2016/
中、2016年10月15日付「三田用水の流末を『文政十一年(1828)品川図』で歩く」 の冒頭の図
に、溜井が2か所描かれていることをご教示いただいた。

 その溜井の位置は、↑の図の
1 中央やや下の「三田用水」との注記の「水」のあたり
2 中央やや右のほぼ最下端から北西に向かう道路の右(東)脇の小さな四角形
である*。

*なお、上図と同時期、つまり文化・文政期(1804-1829年)編纂の、新編武蔵風土記稿 巻之五十六 荏原郡之十八 北品川宿の条に
溜井二 田間ニアリ一ハ長二間横三間一ハ長三間横一間半ナリ
とある
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763983/6


〔参照〕
https://drive.google.com/open?id=1IgnBuX_r2CeAxAiTmaNPx-LmJ18&usp=sharing

■文政11年…
といえば、三田用水が開鑿された享保9(1724)年からすでに1世紀が経過した時期。

 もともとが「不安定な雨水〔天水〕に依存する溜井に水利をたよりたくない」からこそ、農民は用水を希み、領主(といってもこのあたりほとんど天領だが発想は同じはず)も、領地の生産力を上げて年貢の収入を増やすために、自ら用水を開鑿したり、その工事費用を下付したりしたわけで、用水ができれば、上大崎村の例のように、従来の溜井は水田に転換するのがむしろ自然で、現に、標記のページで指摘した都合4か所の溜井は、この文政期には、農地に転換済みである。

■とはいえ…
いくら用水ができても
A 用水路まで遠いなどの事情から、そこからの水利が得られない
B 用水が近くても高低差などから引水できない
といった場合には、依然溜井*に頼るしかない。

*大正期の地図には、これらのパターンで残ったのかもしれない溜井が、中目黒村あたりに見える(ただし、それ以降だと、養魚池だったり果ては釣堀だったりと「油断がならない」)。

また、逆に
C 崖線から非常によい湧水が出るが、冷たすぎるので一旦池に溜めて温めてから使う必要がある
とかいった、いわば積極的な事情があって溜井が残される可能性もあって、ご教示いただいた2か所も、場所柄、この最後のパターンの可能性もあるようにも思えた。

■そこで…
「東京市高低図」
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl1003-01-38.pdf
からこの地域を抜粋した図に、問題の溜井2か所の大体の位置をプロットしてみた。


青●が、既報の、余水路に変わった溜井の位置


 この図から判断すると、
溜井1には、上記のB(そのため、赤矢印の方向からの水利に依存するしかない)
溜井2には、上記のC
のパターンが当てはまりそうである。

■この…
溜井。かつてこの近辺にあったものに較べると、規模が非常に小さく、本格的な灌漑用として機能できたのかは、やや疑わしい。

 さりとて、用水沿いによくあった「野菜洗い場」
           【資料映像】

長野県伊那市

にしては大きすぎるのも確かではあるが。



2017年9月24日日曜日

下大崎村/北品川宿の溜井(池)新田(上大崎村の溜井(池)新田・続編)

■先の…
上大崎村の溜井(池)新田
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post_25.html
で引用した、高島教授の論文にも、上大崎村のそれと同じ 溜井→新田 の転用については、他地域での類例はいくつか紹介されているのだが、あるいは、三田上水→三田用水の流域にも、類例があるのではないかと、気が付いた。
 三田水の開鑿にあたっては、後の組合村である14宿村からの幕府への陳情があったといわれており、それには、上大崎村と同様の水利の悩みをかかえていた宿村が他にもあったと想像できるからである。

■そのためには…
まずは、遅くとも三田水時代に溜井があった場所を確認する必要がある。
 とはいえ、享保期以前については、後の沿革図書のような高精度の地図は望みようがないうえ、とりわけ下北沢村の取水圦から下目黒あたりまでの範囲についての地図らしい地図は皆無といってよい。
 従って、下目黒から北品川までの区間に限られることになるが、先の江戸方角安見図をみると、下大崎村や北品川宿に、上大崎村のそれと同じような溜井が描かれていることがわかった。

                                   
国会図書館・蔵「江戸方角安見図 乾」延宝8〔1680〕年(NDLID:2575023)
上から第2図・第1図

 
ただし、この安見図は切絵図の原型(の1つ)といわれている地図でもあり、みてのとおり、それら相互の位置関係が掌握しにくいので、もう少し広域なものを、ということで、同じく国会図書館のデータベース中から「江戸図 正徳四年」なる地図を見つけ出した。


 


■この地図は…
描かれた時期が、正徳4(1714)年と、安見図よりはやや後れるものの、三田水の開鑿後かつ閉止前の期間中なので理想的で、抜粋した地図中に、既説の上大崎村のそれを含めて4か所の「池」と表示された場所が、上水の右(南)岸、つまり上水と目黒川の間に見つかった。

 それらの溜井と、後の三田水の分水路を重ねてみると、概略下図のようになる。 

 このように、4か所の溜井は、すべて、後の分水路上にあって、このことから、三田水の分水路は、これらの溜井に従前から水を供給していた小河川に、三田水からの分水を接続することによって設けられたことなる。
 と、いうよりも、これらのうちいくつかは、「上水記」によれば合計8か所あったとされる三田水時代の余水吐*、つまり、取水圦の故障や豪雨などによって上水路の水位が上がり過ぎたときに、これを排水するための水路として、もともと機能していたのではないかと思われる。
 
*上水記「三田用水の事」
北澤村にて三尺四方の水口より上水道取立、北澤むら・代々木村・中渋谷村・中渋谷村・三田村・上目黒村・中目黒村・白金村・大崎村上水道掘割、築土手八ケ所築、土手上無蓋戸樋八ケ所、惣貯枡白堀の上くゞり樋野方吐八ケ所、大崎猿町より埋戸樋枡、貳本榎・伊皿子通り聖坂・三田町・松本町・新馬場同朋町・西應寺町角枡迄。大通り上水道、野方白堀・築土手・溜枡・惣戸樋枡一式。(品川町史・中p.485の訓み下し文による)
 
■既存の…
河川の谷頭部に、用水路からの水路を接続することによって、分水路あるいは余水吐として機能させることができれば、水路のために掘削する土の量や新たに徴用しなければならない用地の面積を減らすことができるうえ、水路の測量・設計の手間暇も大幅に節減できる。
 
 上図の分水路については未検討ながら、下北沢村の取水圦から数えて2つ目の溝が谷分水について、かつて地面の勾配を調べたことがあるので、その結果を以下に示すことにする。
 


緑色の一点鎖線のところにあった自然河川に三田上(用)水からの水路を接続したことになる。
 
【参考】昭和3年に、溝が谷分水が廃止された当時の周辺地域の公図
 
左上の隅が三角橋
 
【追記】
 
寛永江戸全図〔伝1643〕
の右下(南方)を「眺めて」いたら、前記の、
・妙円寺脇分水下流の雉子宮神社向かいの溜井
・余水路下流の北品川宿の溜井
の場所に、やはり溜井と思しきものが描かれていることがわかった。
(明暦江戸図 〔伝1657〕
もほぼ同じ。)
 
早速、詳細な画像を探してみると
 

さらに、右から約4分の1の位置に、後の奥平家の屋敷の南端にあったと思われる池も見える

 地図というより絵図なので、断定はできないのだが、とりわけ、東側の余水路下流の北品川宿の溜井は、先に見た安見図のそれに比べて、はるかに規模が大きいように見える。
 
 この三田水の余水路のいわば起点である白金猿町は、三田水時代、ここから先、北は金杉橋南の西応寺周辺、南は東海道の北品川宿南端までは、暗渠〔伏樋〕で給水していたため*、ほぼ絶対に余水吐〔野方吐〕が必要な場所なので、この余水路には、三田水時代にも、ある程度定常的に水が落とされていたことになる。
 
*〔通称〕正徳上水図(部分)
 
 そのため、三田水の開鑿後は、この寛永図時代ほどの規模の溜井は必要なくなったのではないかとも思われる(もちろん、あくまで水源が「余水」吐なので、いわば「保険」として、ある程度の規模の溜井は残す必要があったのだろう)。
 
〔参照〕
 

2017年9月1日金曜日

三田用水のミッシング・リンク解消〔 その3:駒場農学校〕

■当方のWeb…
Half Mile Project 調査サブノート:駒場狩場と三田用水
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaWater.htm
で触れたように、
「江戸の上水と三田用水」*1によれば、明治40年2月26日付けで用水組合が東京府に提出した報告書には、組合各村・水車以外の「用水ヲ使用スルモノ」として、
一 帝国大学農科大学
一 東京砲兵工廠目黒火薬製造所
一 大日本麦酒株式会社
一 高輪御用邸
一 男爵岩崎弥之助

が挙げられている。(P.191)

*1 三田用水普通水利組合「江戸の上と三田用水」同組合/昭和59年9月30日・刊(以下「江戸三田」という)

【追記】
駒場狩場については

目黒区守屋教育会館郷土資料室「昭和六十二年度企画展『将軍の鷹狩りと目黒』報告」多摩のあゆみVol.51pp.87-(多摩中央信用金庫/S63/05/15・刊)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1392015100/1392015100100010/tamanoayumi051_2/?p=1

参照 

■このうち…

「帝国大学農科大学」(現在の東大教養学部、駒場公園(旧前田邸)、東大駒場リサーチキャンパスにまたがる地域に、明治11年に設立された「駒場農学校」の後身で、現在の東京大学農学部などの前身)への三田用水の分水口については、
 上記の「江戸三田」によれば、明治16年ころの「三田用水取調表」(pp.47-51)中「沿革」の項に
明治九年中、荏原郡上目黒村字駒場勧農局ニ於テ、分水口御取設二相成タリ。然ルニ元玖樋口ハ依然旧ノ儘ナレバ、田場用水ノ不足ナルヲ恐レ出願ノ上、水行速カナラシムル為メ元玖樋口象鼻へ三寸ノ坑木ヲ打チ立ルコトヲ許可ニ相成タリ。
との記述があるとのことから(pp.49-50)、この農科大学への引水は、明治9年に、当地が勧業寮の牧場だった当時、用水路に新たに分水口を設置して行われたものであることがわかる。

■この分水については…

勧業寮より荏原郡上目黒村地内駒場野牧場へ玉川上水より分水の掛合につき回答」(M08) という文書の添付図面


東京都公文書館・蔵 [D352‐RAM:607.A5.03]
 下が北。赤矢印(引用者補入)の先が、勧業寮牧場用分水口

グレーで塗られている官有地である牧場敷地に食い込む白抜きの4か所の谷地は、
この時点では民有地だったことがわかる。〔後述〕



によって、この「勧業寮分水」が、三角橋から駒場橋に向って4分の3ほどの位置に設けられたことが判明していた。

■問題は…

牧場時代はともかく、駒場農学校開校後に限っても、この三田用水の水を、どこにどう使っていたのかにあった。

 東大農学部の歴史-歴史写真館
 http://www.a.u-tokyo.ac.jp/history/gallery.html
の「ケルネル田圃」の項に

駒場の水田は、駒場野の3つの谷に作られた谷地田で、現在、駒場野公園に残っている水田は、敷地南側の谷に作られたものである。この水田の潅漑水は隣接する湧水池(註・駒場野公園内の池)から、他の水田は三田用水から潅漑水をとっていた。
との記述があるのは見つけたのだが、どうも一つ「すっきり」しないものがあった。

 上図でもわかるが、この農学校内の谷地は4か所ある。



農商務省農務局「駒場農學校一覧」同局/明治17年10月・刊
〔国会図書館・蔵[NDLID:812768]〕中の構内図に加筆

 東から西に向かって順に、仮にF-H-M-Kと名付けると、谷地H〔「本邦農場」と書かれている〕は、水田ではなく畑である。近世にここが将軍家の「駒場狩場」だった時代の絵図*2 でも、この谷地Hだけは「畑」と注記されている勿論、これだけの広さの谷地なのだから、かつては湧水もあって、その水が台地を削ったのだろうが、それが枯渇したために畑として使われるようになったのだろう)

*2  ・「駒場野御成之圖」年代不詳 (筑波大学図書館・蔵
    https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B15/B1554514/1/normal3/10076879841_A.html
   ・「駒場野古地図」天保10(1838)年頃(川井家文書)
   「上目黒村繪圖」寛政年間〔下図〕 

      
 


   







  




高精細画像は、東京都公文書館・蔵の、こちら

など、多数

■結局…

残る、谷地F、谷地M、谷地Kが、水田だったことになる。
 そうだとすると、前記の「歴史写真館」の記述にしたがえば、谷地Kが「湧水池」(現在の駒塲野公園内の「大池」)の水による灌漑によるほかは、谷地F、谷地Mともに三田用水の分水で灌漑されていたことになってしまうが、下図のとおり、谷地Fは、三田用水からの分水口(推定左上青矢印)から「あまりに遠すぎる」のである。



アメリカ陸軍 Map Service 1946年作成の「TOKYO AND ENVIRONS,SHEET 11“SETAGAYA”」http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-11.jpg
(抜粋)と明治17年の構内図との重ね図。



   
   

■そういった問題が…

今回入手した、
 
筑波大学附属中・高等学校創立四十周年記念行事実行員会・編「駒場水田の誌」同校/昭和62年10月・刊
 
によって、クリアになった。
 
■同書中…
 
熊沢喜久雄「駒場における米作肥料試験」(pp.47-52)
 
によると
 
「 駒場野が開拓され移転を完了した農学校(駒場農学校)が開校式を挙げたのは明治十一年(一八七八年一月二十四日である。↓
その時の農学校用地の総面積は一六五、二六七坪(五四・八三ヘクタール)であり、その大部分は畑地であり、水田は三、六六一坪(一・二一ヘクタール)を占めるに過ぎなかった。↓
この水田は関東平野によく見られるような台地部に挟まれて存在するいわゆる谷地田で、↓
 構内の↓
ほぼ中央部を南北に↓
また↓
 南側を東西に↓
かけて存在していた。↓
潅漑水は↓
前者については『玉川ノ分流ニシテ駒場ノ西四十キロメートルノ地ヨリ引キ』↓
後者は構内の池を水源にしていた。↓
また東の端に別の湧水を水源とする若干の水田が存在していた。これは間もなく養魚池となる。↓

水田は約十六メートルの幅のものが並び順に潅漑をされていた。↓
 前者は約二〇の区画が二四〇メートルの長さに(農学叢誌、二巻、明治十八年)、↓
 後者は約三〇の区画が三〇〇メートル(推定)の長さにわたり、↓
 また養魚池になった所には約一五の区画があった。
」(P.47。↓は引用者挿入の改行)
 
 これを、前図にあてはめると
・谷地M:「構内の…ほぼ中央部を南北に…かけて存在していた」水田
  今の京王井の頭線駒場東大前駅西口前、マルカ蕎麦店脇に遺る水路



     の前身は
  三田用水の水で灌漑されており
・谷地K:「構内の…南側を東西に…かけて存在していた」水田
  今の「ケルネル田圃」は
  構内の池を水源とし
・谷地F:構内の「東の端」の水田、
  今の通称「一二郎池」*3
  「別の湧水」を水源とし、後に養魚場としてつかわれていた
ことになる。
 
 つまり、前記の分水口によって分水された三田用水の水は、谷地Mの、今の野球場のレフトフェンス前あたりにあった(上記「重ね図」参照)谷頭部「だけ」に接続されていたことが判明したのである。
 
 もっとも、この谷は、ここが将軍家による主として鶉狩りが行われていた駒場狩場の時代から水田であったことは前記の近世の各絵図から明らかであるが、そのころはまだ三田用水からの分水はなかったこと、また、その給水がおそらく昭和初期に途絶えてから長期間が経過した現在でも少量とはいえマルカ蕎麦店脇に水が流れていることから見ると、この谷地Mの水田は、もともとはその谷頭部にあった湧水で灌漑されていたのだろうと想像される。*4
 
*3 正式には「駒場池」
  https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/tokei/chosa_hokoku/midorijittai.files/houkokusyohp250.pdf

*4 豊島区立郷土資料館「2010年度企画展 豊島郡の村絵図」〔図録〕同区/2010年10月22日・刊
  のp.9に掲載されている「上渋谷村・中渋谷村・代々木村・幡ヶ谷村・角筈村・柏木村・大久保村・中野村辺絵図」の最下端に「駒場原」が描かれていて、場内の左(西)寄りに2か所の池がみて取れる。

高精細画像は、東京都公文書館・蔵の、こちら


上端中央が「紀伊殿」と「長谷川図書守」、下端中央の赤塗が「氷川明神」

 
 下(南)側の池が、その位置からみて、現駒場野公園内の大池であることはまず間違いない。
 問題は、上(北)側の池で、もともと、この絵図は代々木村から北の豊島郡内を描く目的で制作されたもので、駒場原の大半を占める荏原郡については、参考程度に描いたものと思われるので、それほどの精度は期待できない。
 しかし、少なくとも、池が駒場原の概ね西寄りにあることを示そうとはしているのだろうし、さらには「二ツ橋」の南と明治期の谷地Mの谷頭と位置が整合しているので、そこにあったはずの池と考えるのが素直だろうし、そう解釈しても矛盾もない。
 なお、「駒ヶ原繪圖」によると、この辺りに「『池』頭御立場」があったことになる。
 もっとも、この絵図に描かれているそこからの水路については、谷地Mの明治初期の谷筋の姿とは整合しないのだが、もともとが「ずけずけ」と調べに入れる場所ではないために「ともかくも、わかる範囲で、水が空川に落ちている」ことを示す意図だったか(ロシアの諺「遅れて来る方が、来ないよりいい」を応用すれば「多少まちがったことでも書いてある方が、全く書いてないよりはいい」と後世の我々にとってはいえる)、さらには、これは全くの想像だが、あるいは、この池の水は、もともとたとえば谷地Hに落ちていて、その後、御狩場としての使い勝手を良くするために、谷地Mの原型にあたる小川の上流に付け替えたのかもしれないのである。
 
 ■幸いなことに…
 
この谷地Mの水田については、様々な過去の記録が残っている。
 
●ひとつは、(他の谷地と同様)この水田は、駒場狩場→勧業寮駒場牧場→勧農局駒場農学校という変遷を経た時点では「官有地」には含まれておらず、その後の明治12年ころ、所有者であった田中頼庸から買い上げられたときの買収記録中に図面がある。
 
駒場農学校敷地續民有地買上義伺」国立公文書館・蔵(ID:M0000000000000125461_0086)
 
上記「…伺」添付図面を画像調整
 
 
●いま一つは、明治後期の写真である。
 
小川一真・編「東京帝国大学 1904」小川写真製版所/明治37年8月・刊
 
(国会図書館・蔵 <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813162/122>)
 
「農科大學見本園」と題する写真を画像調整
(手前の台地上はクワと推定される)
画面奥の稜線は、下北澤村(現・世田谷区北沢)の仮称「池ノ上台地」
 
 ●そして、最後が、三田用水の水質データである。

安富六郎「<三田上水紀行> 5.用水の定量分析」
(山崎農業研究所「農業文化マガジン『電子耕』」No.205-2007.03.22号
http://melma.com/backnumber_152188_3596383/
所収)

では、明治15年の夏に駒場農学校で、「あの」ケルネルらが構内の湧水のそれと共に行った、三田用水からの引水の水質を「10項目にわたって、ppm(百万分の1)の単位で分析」した結果*4を引用したうえ、平成13年の羽村堰のそれと対比して

(当時の)「三田用水は現在の多摩川の水と比べて、格段に良質であった」と結論している。

*4 なお、引用元の、熊澤喜久雄「駒場の水田と米作肥料試験」(肥料化学10号pp.59-91)
      http://www.hiryokagaku.or.jp/data_files/view/273/mode:inline
  記載の、「中央部の水田の灌漑水」の分析結果は、同論文のp.71

【追記】

ほぼ同時期の、玉川上水や神田上水、千川上水の水質調査データが、ここ


「東京上水試驗」藥學雜誌/1886 巻 (1886) 55 号
https://ci.nii.ac.jp/naid/110003614271

にあった。

【余談】
「ケルネル田圃」の水源について

冒頭に記した「駒場水田の誌」中

彰岡 彰「駒場の水田について」
に、現在の駒塲野公園の整備に関して、以下のように解説されている。

(1)潅漑水について
…(ケルネル田圃の)水源の池は水を涸すことがなかった。以前はクロマツの生えている近くの池の底から湧水があったと聞いている。また昭和三十年代前半頃までは井の頭線の北側(農学部の畜産の畜舎があった近く、現在は留学生会館の建物がある)には滾々と湧き出ている泉もあり池に流れこんでいた。
(駒場野)「公園を造成するにあたり、昭和六十年に稲刈り後翌年春までに池も大改修がなされ、底の沈殿汚物は全部除去し、深いと危険であるということで以前より浅くなり、周囲は自然石で石垣が組まれ、公園としての景観がつくられた。それとともに家庭排水は、潅漑用水の中には入らなくなった。池には公園内に降った雨水、体育館内のプールからだけの水になり、水質は改修前に比べると比較できない程良くなった。なお、雨量が少ない時のため、斜面の芝生の地下に約三〇〇m3の水槽が作られていて、池の水が著しく減った折にはポンプで吸い上げる仕組みになっている。
」(以上p.64)

■しかし…

これには、補足が必要である。

 前掲明治17年構内図からも明白であるが、現在の京王井の頭線の線路の北に接している留学生会館の場所が水田であったとことは確かである。
 しかし、ケルネル田圃の大元の水源は、もともとは、そこよりはるかに北、今の東大リサーチキャンパス(東大先端技術/生産技術研究所)のほぼ中央部にあり(明治17年構内図参照)、昭和8年に帝都線(計画時は城西鉄道*5、現在の京王井の頭線)の築堤の敷設によって、その上流部と下流部の谷地の間の水路が埋め立てられたようではある。
 しかし、この帝都線の工事にあたっては、この谷地との交差部分に、線路の北側から南側に水を落とすため、直径「1尺4寸」(約40センチメートルの「土管」を埋設して暗渠化された水路が敷設されている。

東京都公文書館・蔵〔[16]府昭07-111,[D]D828〕
「渋谷附近線路及工事方法変更【予算新旧対照表(4)】東京郊外鉄道(株)(渋谷急行電気鉄道)」
「東京郊外鉄道株式会社 自零哩零鎖 至零哩四十七鎖五十五節 間線路實測平面図」 を
抜粋→白黒反転→赤字補入

  そして、少なくとも谷地Kの暗渠は、現在でもやや形を変えて残っているようなのである。

 なぜなら、下の図は、東大が、2004年(平成16年)ころ、工事の発注にあたり、入札参加業者への情報提供のために公開していた図面のうち「東京大学(駒場Ⅱ)駒場オープンラボラトリー施設整備事業」「[資料4]設備系統インフラ図」のうち「4-3-2配水管配置図」という図面であるが…

青線が後述の雨水ライン
 この図面の左下(南東)の隅には、以下のような注記がある。
線路ができたため線路下に管路を敷設した
 池への流入については、目黒区からの要請があり、了解済み
  つまり、この図によれば、東大リサーチキャンパスの略東端部の雨水は、直径60センチのおそらくヒューム管によって、線路南の駒場野公園の大池に流下していることになる。

 つまり、ケルネル田圃は「公園内に降った雨水、体育館内のプールからだけ」灌漑されているわけではなく、ちょうど明治17年当時のように、リサーチキャンパスの雨水によっても灌漑されていることになる。

*5 城西電鉄→澁谷急行電鉄―合併→東京郊外鉄道(旧・山手急行電鉄)→帝都電鉄 と会社名や会社自体が変遷している。