2017年7月26日水曜日

三田用水のミッシング・リンク解消〔その2:防衛装備庁研究所〕

「ブラタモリ」〔=NHK〕が解明した、三田用水の3つのミッシング・リンク〔その2つ目〕

こちらは…

ミッシングリンクというほどのことでもないのですが、
現・防衛装備庁艦艇装備研究所 <http://www.mod.go.jp/atla/kansouken.html>
の実験用水槽の水。


画面手前横方向の緑色の屋根の細長い建屋が実験用水槽
手前側の三角屋根が「大水槽棟」。奥側のカマボコ形の屋根が「高速水槽棟」

















 ここの構内の建物の配置や、これら2つの実験用水槽など構内の施設の規模や機能の詳細については、
 
佐藤隆一「防衛庁技術研究本部第1研究所」(TECHNO MARINE 日本造船学会誌/第875〔平成159月号〕)
 
に詳しいので、そちらをご参照いただくことにして、ここでは「水槽」の話。
 
■水槽といえば…
 
ここには、屋内の2つの水槽(実際には、ほかにも「中水槽」「無響水槽」などがある)のほかに、屋外、敷地南西端、上の写真でいうと左端に写り込んでいる高い煙突のある清掃工場の向かい側の、現在、統幕学校(かつての、陸軍/海軍大学校に相当するようである)、幹部学校(同じく、陸軍士官学校、海軍兵学校に相当すると思われる)のある場所(煙突右の立方体に近い形のビル)に、「旋回円形水槽」という円形のプールと「旋回実験池」という略紡錘≒洋梨型の池があって(下図参照)、屋内水槽やこれらの水槽に「三田用水の水が使われていた」とかねてから言われていましたのですが、これまで「ウラ」が取れていなかったのです
 





Army Map Service〔A.M.S.〕(U.S.A.)1946制作
"TOKYO AND ENVIRONS, SHEET 12 - NIHOMBASHI"テキサス大学図書館・蔵
<http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-12.jpg> 〔抜粋〕
 























■「ブラタモリ」に…
 
登場したのは、これらのうち「大水槽」。
 
佐藤・前掲p.103によると
長さ 255m × 幅 12.5m × 深さ 7.5m 昭和5年竣工
 
(なお、隣の高速水槽は
長さ 346.5m × 幅 6m × 深さ 3m 戦前に着工・戦後竣工)

なので、容積は 2万3906.25 立法メートル(放送では1.8万トンとされていますが、水槽に、文字通り「波風を立てて」実験することもあるので、7.5メートルの縁ギリギリまで水は入れられないためと思われ*、これを水深に換算すると5.65メートル)

(高速水槽の方は6237立方メートルなので、その約4倍)

*佐藤・前掲p.106

【追記】2021/09/05
不覚にも、ネットオークション出品画像を見て、帝都地形図(之潮・刊)の「三田」図に、おそらく、震災前、ほぼT11の火薬製造所の姿が記録されていることを、今頃になって知った(さらに不覚にも、この「三田」図のコピーは、渋谷区猿楽町の旧朝倉家住宅の沿革を調べるために入手済みで*、手許にあった^^;)

帝都地形図 T10/12測図S22/07補修「三田」〔抜粋〕
S03起工の大水槽はまだ存在しない一方で、
目黒川沿いの、洋梨形の旋回実験池(右下)と、終戦時未完成だった旋回円形水槽は、輪郭だけ追記され、
また、新茶屋坂も、追記はされているが坂下が目黒川で行きどまり





*帝都地形図なら、上図同様に東京都立図書館などでコピーが入手できるので、あわてて入札しなくて正解だった。地図が欲しいわけではなく、情報が欲しいだけなので。


■今回の放送での…
 大きな収穫は、明治13年に開設された海軍(後に陸軍)の火薬製造所時代、火薬製造所が大正12年の関東地震で全焼したのを機に移転された後、昭和に入ってからの海軍技術研究所時代(この間、昭和21年までは、明確な裏付けがある)だけでなく、防衛庁(当時)技術研究本部第1技術研究所となった後も(その前の連合軍による接収時期*を除いて) 昭和48年にここの構内の暗渠が破損して通水が停止されるまで(公式な通水終了は、昭和49年8月31日)、三田用水の水がここで使われていたうえ、それが残存していることの裏付けがとれたところにあります。


*高速水槽が未完成なので、連合軍による接収解除後間もないと思われる時期の構内図が、
 HONDASO氏のTweet記事中にあった。
 https://pbs.twimg.com/media/CdJEA72UYAEftFO.jpg
 ここに描かれている、三田用水から目黒川への分水。謎である。

【追記】2018/01/21
 この謎の分水。このアーティクルのコメント欄で大御所本田創氏から、その素性をご教示いただいた。
 逆サイフォン入口の余水吐けとなると、増水時(あるいは、上流部の分水口で故障などがありそこでの取水が停されたときも同様)には、この水路には大量の水が流れ込むことになるので、その水を崖下で溢水させないだけの、相応の容量が必要である(この製造所の東端の「出口」先の「実相寺山分水」のところには、明治13年当時、そこから下流に大量の水が流下しなようにするための「仕掛」があったようだが、そこから上流部に同様の「仕掛」は、今のところ見つからない)。
 この位置と流路、下図のとおり、明治初期までの別所上口とその分水路と、ほぼ整合しているように見える。
M13測M30修測 1/20000 内藤新宿〔抜粋〕
この時点で、旧海軍火薬製造所から渋谷川に流下する道城池口は、2度目の移転を経ている。

M42測T06修測 1/10000 三田〔抜粋〕

 しかも、驚いたことに、現在のを設定する大水槽に貯留されている水の、約4割つまり4500トンは三田用水の水が残っている、ということでした。
 
■とはいえ…
 
三田用水の水は、元を質せは玉川上水、ひいては、多摩川の水なので、たとえば「地底湖に封じ込められた5万年前の水」などどいうのに比べれば、それほどのインパクトではなく、やはり、昭和21年から48年までのミッシングリンクが繋がった*ことの方が、個人的には1番の収穫といえます。
 
*なお、佐藤・前掲pp.103-104によれば、この敷地が昭和31年ころ連合国による接収が解除されたときには「大水槽側壁のクラックは総延長約1600mに及んでいたがセメントガン吹付工法による防水工事が行われた」〔原典は高比良善郎「防衛庁技術研究本部第一研究所水槽施設復旧工事に関する報告」の由〕とされているので、接収宇解除時には水は無かったはずで、現在大水槽にある水は、(戦艦大和の艦形の設計のための実験に使われた水ではなくて)間違いなく「戦後の水」なのである。
 

2017年7月22日土曜日

三田用水のミッシング・リンク解消〔その1:目黒雅叙園〕

「ブラタモリ」〔=NHK〕が解明した、三田用水の2つのミッシング・リンク〔その1つ目〕

■タイムシフトのために…
「録画しといて後で見る」結果になった、
平成27年12月17日放映の、ブラタモリ「『目黒篇』~目黒は江戸のリゾート!?~」

 そう、べらぼうに忙しかったわけではなかったのですが、いわゆる「気がせく」というやつで、21日深夜の再放送を、翌晩になって早送りしながら見たのですが…

■それだけでも…
ラスト近くの目黒雅叙園の、かつて三田用水の水が流れていた人工の渓流痕の画像のインパクトは強烈で、ここだけは何度も見返して、ここ10数年抱えていた疑問が一気に氷解したのでした*

*これ、法政大の根崎教授の研究成果のようで、同教授、2010年放映のブラタモリ「鷹狩篇」に出演されたときには「あれっ?」で思う発言もあったのですが、その後書かれた論文では、しっかり修正されていて、ずっと、研究を続けておられることがわかった次第。

■その、目黒雅叙園…
いわゆる三田用水事件の際、1審の東京地裁や2審(控訴審)の東京高裁の判決で、組合の水利権は否定されたものの、用水の水路の土地の所有権を組合に認めたのを不服として、最高裁に国側が上告した、その不服の理由の中に、当時、目黒雅叙園が三田用水の水を引水していることに言及する部分があり、
  • 国が最高裁に提出した書面の中に書いていること
  • 全体の文脈の中で、雅叙園の引水は、国の主張にとって、むしろ不利な事情ともいえるのに、あえて書いていること
から、まず間違いはないだろう、とは判断していたものの、水を、どこにどう使っていたのかについては、それ以上には全く情報がなかったのです。
 
■そんな中で…
唯一見つけたのが、
http://masabou.blog.so-net.ne.jp/2008-06-06
の、雅叙園にお勤めのお父上が案内人となったツアーに参加されたご子息のリポートだったのですが、お身内がらみの話のせいでもあるのか、肝心のところがはっきりせず、わかったのは
「どこかの部屋の奥の窓から、三田用水の水が流れていた痕跡が見える」
ということ(ブラタモリで判明したところによれば、これは、その限りでは100パーセント正確でしたが)に止まっています

■Web上でときどき見かける…
絵葉書(後掲のとおり、今回原典を入手)をみても、どうやら
「敷地の北東にある本館と呼ばれていた建物の南に
 かつて池があって
 そこに滝が落ちていた」
というところまでは分かりましたが、
東京都立中央図書館にある、この
http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?qf=&q=%E9%9B%85%E5%8F%99%E5%9C%92&start=16&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&tilcod=0000000007-00004654&mode=result&category=
鳥瞰図を見ると、滝といっても庭園内に何か所もあるようですし、


【追記】2020/04/28
↑の絵葉書の原典も入手した




滝は4条見える
百段階段は、一番左の滝の左上

 
↑の鳥瞰図の左端上部を拡大






敷地全体の平面図も見つかっていなかったので*、水路の位置などを推定しようがなかったのです。

*建物だけの平面図なら「スパーアート・ゴク― 1981年1月号」パルコ出版・刊p.8にあった。
 改修・改築されてしまっているし、前述の池は、そのはるか前に無くなっているようなので(末尾の地図参照)、

 今更見に行っても無駄。

■今回の…
「ブラタモリ」でわかったのは、雅叙園の先の大改築の折にも残された「100段階段」*の南に沿って傾斜地にいくつか座敷棟が設けられ、それらの南端の窓の直下に渓流が設えられていて、そこを三田用水の水が流れていたようなのです。

*「100段」だと、いわば究極あるいは完成してしまったことになり「後は朽ちて行くだけ」になるので、縁起を担いで、実際には99段らしい。「100」を、日本人が、いわば本能的に避けることは、「馬込99谷」とか「代々木99谷」などをはじめ、類例も多い。

■そこで…
「100段階段」沿いの座敷の写真を探してみたのですが、ほとんどが座敷の内側の写真ばかりだったのですが、1枚だけ見つかりました。


 「100段階段」沿いには、東端の最上部の「頂上の間」*から西に向かって合計7つの座敷**が並んでいるのですが、これは、一番低い西端にある「十畝荘〔じっぽそう〕」の写真彩色絵はがき。
 左端に渓流が写り込んでいます。
 下流で少し左に水路が曲がっているように見えますが、その先が本館(当時)から正面やや左に見える場所にあった滝につながっていたようです。

* ブラタモリに登場したのは、この部屋
**上から3,4室目を除き、各間が独立棟となっている
 なお、ここ
 http://chiakih.cocolog-nifty.com/ic/2006/01/post_af8c.html
 の上から21枚目に10年ほど前の渓流跡の写真がある。












なお、(やや不正確ながら)20世紀末の改築前の敷地の地図を示す



東京都港区立三田図書館・編
「近代沿革図集 別冊Ⅰ  安永・昭和対照図」
同館/昭和59年・刊 のうち「昭和図」中
 「駒場・祐天寺・碑文谷・渋谷・目黒・大崎(左下)」より一部引用
青線が推定される渓流の流路

2017年7月21日金曜日

「都市伝説」を正す(駒沢通り篇)

■かつて…

テレ朝の『タモリ倶楽部』の制作会社のディレクターさんとADさんに、現地のほんの一部ですが、東大先端研/生産研あたりを歩きながら、三田用水に関する情報提供をしたことがあります。

2009年5月16日放映の「好評! 都内歩いているだけ企画、三田用水のこん跡を巡る!」
の事前取材への対応だったのですが、たしか放映の数日前、ADさんから、仕事場に電話がかかってきて
「昔、三田用水の橋がかかっていた鎗が崎なんですが、都電を通す*ために道を広げたって、本当なんでしょうか?」

* http://showa.mainichi.jp/ikeda1960/2008/05/ik057310.html

■こちらも…

以前、それらしい話は耳にというかネット上で目にしたことはあるのですが、その種の「都市伝説」めいた話は結構多いので、改まって調べたことがなく、一晩かけて調べた結果、資料(後記【参考資料】など)付きで回答したメールは、概略以下のような内容でした。

  • 明治13年から42年の間にできていた、駒沢通りの原型となる用水の下をトンネルで潜っていた道路を
  • 東京の都市計画事業(正確には「東京市区改正事業」)の一環として、都市計画道路*として整備・拡張するために作られ
  • その結果、広がった道を「玉川電気鉄道」が通った
  というのが「正解」だと思います。

  *正確には「道路」→「街路」

■この「大筋」は…

その後見つかった資料からみても、変わらない、というか、むしろ確実なものになっていて、この駒沢通りの玉川電車は、後に東京都電に編入されたので、その点では間違いとまではいえないものの、

「『都電を通すために道を広げた」という話は、単なる『都市伝説』だ」

というのは確かだと思います。

■当の番組では…

「明治時代 都市計画の一環として ここにあった崖を切り崩して 道路が作られました」
というナレーションになっていました。

 大きく括れば「バラエティ」に属する番組なのですが、かなり本格的に内容を「考証」しようとしていることを知って、少々見直した覚えがあります*

*タモリさんの地形・地理への「こだわり」が影響しているのかもしれませんが、CM制作などに長く関わっていた友人によると、この制作会社は、業界では、かなり「しっかりしている」ことで定評のあるプロダクションの一つの由。

■ところが…

市電ではないものの「路面電車を通すために広げた」といってもよい道路が本当にあったのです。

 先の鎗が崎を通る駒沢通りのことを、渋谷町(区)では「下通〔しもとおり〕」と呼んでいました。

 「下」があるから「上」もあるんだろうということになりますが、そのとおりで、今の「246」というか「玉川通り」というか「厚木街道」が「上通」で、玉川通りと新山手通りの交差点、現・神泉町交差点は、長く「上通3丁目交差点」でした。

 実は、もう一つ「中通」という道があって、今の明治通りの澁谷・恵比寿(澁谷橋)間など現・渋谷区内の部分がそれなのですが、この中通が、どうやら、路面電車を通す「ために」広げられたといってもよい道なのです。

■一般に…
市販されたものではないのですが

 有田肇・著「朝倉虎治郎翁事跡概要」東京朝報社/昭和10年1月・刊

という本があります。

 この朝倉虎治郎というのは、一言でいえば「代官山ヒルサイドテラスのご先祖様」。澁谷村/町/区会議員、東京府/市会議員などを務めた人物です。

澁谷町・編「澁谷町字名地番改正誌」同町/昭和3年・刊 口絵 より


■この本の…
30ページ以下の「道路に関する事跡」中に

大正九年度には東京府郡部經濟に於て空前の大事業と稱された厚木街道裏道、今の中通の改修計畫が府會を通過した。

初め此の道路は澁谷川に沿ふ五間幅片側町の案であつたが、將來の繁榮の爲には幅員を廣くし兩側町となすことが有利である、然し最初より其の計畫を立てるときは尨大なる豫算となり、他郡他町村會議員の嫉妬を受けて反對される危險があるので、朝倉は計畫を二段に立て右の案を出したのであった。そこで右の案が府會を通過すると同時に朝倉は玉川電鐡會社に對し町理事者を以て、此の機會に會社が更に五間幅の增擴張費を寄附して、軌道敷設讙を獲得することを勧め、叉同時に公友會をして兩側町に計畫變更要望の民衆運動を起さしめ、三角關係の幾折衝を重ねた上で、今日の電車が通ふ九間幅の兩側町が出来上ったのである。
」pp.47~49
との記述がありました。

 「中通」というのは今の明治通り(の一部)の渋谷での通称で、ちなみに、玉川通りは「上通」、駒沢通りは「下通」と呼ばれていました。

■つまり…

この中通は、
  • 当初は、渋谷川の縁に幅員約9メートルの道路を設ける計画だった
大正10年 東京府豊多摩郡澁谷町平面圖(部分)
大正9年に府議会で決議された「幅5間の道路」の計画
位置を、既存の地図上に重ね書きしたものと思われる。

  • それが、軌道を敷設するための玉川電鉄の寄附によって、渋谷川からやや離れた位置に両側に街区のある幅員約16メートルの道路に計画変更され
  • 拡張された幅7メートルの部分を使って、渋谷-天現寺橋間2.6kmの「玉電 天現寺線」が敷設された
大正15年 東京府豊多摩郡澁谷町全圖(部分)
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1231.html
 ということになります。

■結局

「電車を通す『ために』広げられた道路」といえるのは、中通、つまり、今の明治通りであり、
下通、つまり今の駒沢通りの方は「道路が広がることになったので電車を通した」という、よくある話に過ぎないことになります。

 下通にかかわる先の「伝説」は(ままあることですが)中通の話が、こちらの話にすり替わった結果、といえそうです。

【追記】2017/08/27
上通つまり玉川電鉄本線の敷設にあたっても、玉川電鉄は、現玉川通りの拡張について、その幅に軌道敷設に必要な分を加えるため、東京府にその費用を寄附していたらしいことがわかった。


【参考資料】
「土木建築工事画報」
  http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/

第9巻6号「東京都市計画事業の沿革」
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/09-06/09-06-1827.pdf

第15巻1号「東京府施行都市計画道路工事」
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/15-01/15-01-2737.pdf