2017年6月25日日曜日

上大崎村の溜井(池)新田

北沢川文化遺産保存の会…
<http://blog.livedoor.jp/rail777/>恒例のツアー「都市物語を旅する会」の一環、
2017年6月24日の「第2期第4区 大日本麦酒工場跡~五反田駅」
のご案内をさせていただいた。

そのツアーの終盤の…
目玉と考えていた場所に、日本鉄道品川線(現・JR山手線)開通時に目黒駅のあった、三田用水の烏久保分水末流に近い場所(下図赤丸)がある。

迅速測図〔M13〕抜粋に
三田用水路=紫線、烏久保分水路=青線、水車場=空色星印を各補入

初代目黒駅のことは…
今回措くとして、この地域に興味を持った理由は

高島緑雄「関東中世水田の研究」日本経済評論社/1997・刊*

のpp.65・66に

…そこはJR山手線五反田駅の西北方約五〇〇メートルの地点で、白金台地を刻んできた目黒川左岸低地に開口する「西」・「中」・「東」の三本の狭短な谷が合わさった出口である。ちなみに一九〇九年地形図によると、JR山手線が五反田駅と目黒駅間を登り下りする線路は、「西」側の谷の傾斜を利用して敷設されている。また地形図が目黒駅南の切り通しになった谷頭付近に付した地名は、「西ノ谷」である*…。
 このような溜池の立地は、この溜池の機能が、明らかに二本の谷水を谷口で貯留し、目黒川左岸低地所在の水田を灌漑するものであったことを明らかにする。寛文四年(一六六四)に下北沢村で玉川上水を分水し、芝白金御殿に通水した上水で、享保八年(一七一三)に用水に転用された三田用水が、「中」の谷を経由して目黒川左岸低地の水田に注がれると、同池はその役割を終えて溜井新田に変化するのである。

とあったからである。

* なお、高島教授の原論文は

 高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(一)-谷田地帯における中世水田へのアプローチ-」駿台史學Vol.55,pp.87-
 https://meiji.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4093&file_id=17&file_no=1&nc_session=t6kr2rkloenoofcruv8k6rfb51

 

** 加えて「『中』の谷」の地名は、上流部は分水名の起源と思われる「烏久保」だが、下流部の溜井新田のあたりは「池ノ谷」という、いわば「そのまんま」の名前である。
 (国会図書館・蔵「土地概評価. 荏原郡大崎町 大正9年8月調」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921562/6
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921562/7
 参照)

つまり…

高島教授の考えでは、
  • 後に三田用水烏久保分水となった谷を中心にその東西2つの谷からの合流点に、(おそらく中世期にこの地に水田が拓かれたときに)溜井(池)が設けられ、その水が、そこから、南の目黒川に至る地域の水田の灌漑に使われていた*
  • その後、中央の谷が三田用水の烏久保分水となって、上流から恒常的に水が供給可能となったため、溜井(池)が不要となったので、干拓するなどして水田に転用された
ということになるし、現に同書p.66に引用されている弘化2(1845)年の宿村絵図によると、同地が「(上大崎村)溜井新田」、つまり、「元は溜井だった場所に新たに開かれた田**」を意味する地名で呼ばれていたことがわかる。

* 「言われてみれば当り前」のことながら、中世期、水田とこれに灌漑する溜井の水を一定のルールに従って使う権利とは、いわば1セットで売買などの取引の対象となっていた。
 宝月圭吾「中世売券よりみた池灌漑について」(「風俗」第17巻2・3号 日本風俗史学会/S54/04・刊)pp.1-12


**「新田」といっても必ずしも「水田」を指すわけではない(畑であることも多い)。
    ただ、この地の場合は、地形的にも水利の面でも水田と考えてよいだろう。


なお…

この地については、幕府普請方制作の「御府内場末往還其外沿革圖書」中の広域図である
「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」国会図書館・蔵
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9370094/2>
にも「溜池新田」と表示されていて、この地名がかなり「固定」されていたことがわかる。



 (なお、「弘化三午年九月調 麻布…碑文谷村一圓之繪圖 三枚之内中」国会図書館・蔵〔pid=2587256〕も同じ)

こうなると…
高島教授のいう溜池の新田への転換と、当方のメインテーマである三田(上)用水との関連について、さらに詳しく情報の分析をしてみたいところなので、まずは、新編武蔵風土記稿で、烏久保分水の水の引取先とされている*上大崎村と谷山〔ややま〕村の件を見てみると

*品川町役場・編「品川町史 中巻」同町役場/S07 /06/10・刊 p.487
 <https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&pg=PT515&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwibhd2prdjUAhUEEbwKHUVsDJIQ6AEILjAD#v=onepage&q=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&f=false>

●上大崎村

 …撿地ハ元禄八年織田越前守改メシ後享保十七年筧播磨守新田を撿ス… 

●谷山村

 …享保五年筧播磨守撿地セリト云コレハコノ頃新墾ノ田アリシ故ナルヘシ

とあって、上大崎村については三田用水の開鑿と時期的に整合することがわかった。

*享保11年8月に幕府から「新田検地条目」が発布されている。
 新田については、開発後、通常2~3年、条件によっては5~7年、鍬下年季と呼ばれる年貢の免除期間があったので、三田用水の開鑿後ほどなく溜池が新田化され、その年季明けに検地が行われたとすると、時期的に整合する。【末尾「追記170902」参照】
 
ところで…
この溜井(池)新田のことを知った4年ほど前から、まだ溜井(池)のあった時代の地図を探していたのであるが、実は「探す」までもなく、すでに6年以上前からPCの中に眠っていたことが、今朝になって、わかってしまった。
 
それが
「江戸方角安見図」
という、幕末にいわば大流行した切絵図の原型3系統のうちの1系統とされる*、延宝8(1681)年**刊行の地図(帳)である。
 
*朝倉治彦・編「江戸方角安見図」東京堂出版/S50/12/25・刊p.4

**三田「上」水の開鑿(寛文4〔1664〕年)から17年後
  三田「用」水の開鑿(享保9〔1724〕年)に43年先立つ

 
国会図書館・蔵〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575024/28
の図を抜粋+反時計回りに90度転回+画像調整
図の右下の青塗り部分が溜井
 
この図を最初に早稲田大学のライブラリ(こちらにもある)の方からダウンロードして観察したときは(三田用水の経路が含まれているので、チェックの対象だった)いわゆる「事実の理論負荷性」というやつで、この青塗り部分が溜池とは全く思いも及ばず、南方にあるので目黒川を簡略化して表現したものか、などと漠然と考えていた。
 
しかし、今あらためて見てみると、青塗の左下に「トクセウシ」つまり、今の山手線の南側線路際にあって目黒川からはそこそこ北に離れている徳蔵寺(念の為濁点をふると「トクゼウジ」)


2017/06/08撮影
〔Sonyα7R+Elmarit28(4th.)〕

が表示されているので(前掲「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」左下付近の赤塗部参照、青塗部が目黒川であるわけがなく、高島教授の指摘する溜井を表現していることに疑いはない。

【追加調査】

■ここまでわかったので…

はたして、この池がいつごろまであったのかを調べてみたくなった。

 かつては、探すのに苦労したのだが、最近は、幸い国会図書館のデジタルライブラリで、膨大な「江戸大絵圖」の精彩なデータを見ることができるようになり、むしろ、選択に迷うほどとなっている。

■まずは…

三田「上」水時代の、ほぼ最後(享保7〔1722〕年)の状態といえる

●享保2 〔1717〕年の「分間江戸大絵図」

 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542439/3
 を見ると、同所(以下、いずれも左上隅付近)には「池」が表示されている。

以後、三田用水開鑿(享保9〔1724〕年)以降も

●享保14〔1729〕年の「分間江戸大絵圖」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542498/3

をはじめ、「池」が描かれた状態が続くが、変化が現れるのは

●延享5〔1748〕年「分間延享江戸大絵図」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542456/3


あたりからで、同図では、墨刷りの版では「池」が表示されているものの、たとえば、東の雉子神社の往還を隔てた向かいにある池については、青色の版で彩色されているのに対し、この上大崎の池には彩色がない。

そして、その後約半世紀を隔てた

●享和3〔1803〕年「分間江戸大絵図 完」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286186
 に至って「池」が消滅している。
 
■もう少し…
 
細かく時系列が追えればよいのだが、それでも
  • いわゆる「御府内」ならともかく、郷村に属するこの地域について、地図の制作・改訂にあたって、どこまで本格的に踏査したかについて疑いが残る
  • 水を張ってまだ田植えする前の水田と溜井とでは、遠目では見境いを付けにくい
  • 制作・改訂のための調査の時期と地図の刊行との間には、現代でも一定のタイムラグがあるのだから、往時ではなおさらである

こともあって、これ以上の解明はなかなか難しそうである。

【追記170902】

ふと思いついたので「沿革図書」(国会図書館)をトレースしてみた。

ここは「御府内場末往還其外沿革圖書. [5]拾六下」
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236
の領域で、

まず、「享保十四酉年之形」〔1729年〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236/93


次いで、「寛延元辰年之形」〔1748年〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236/94






というわけで、一目瞭然だった。

〔参照〕
https://drive.google.com/open?id=1IgnBuX_r2CeAxAiTmaNPx-LmJ18&usp=sharing


【追記】20230704

後記コメント欄に「なかの様」から貴重なご指摘を頂いた。

●要は、
 従前から「鳥〔トリ〕久保分水」と呼ばれていた分水口や分水名は、彼の地では旧来から呼ばれていた「「烏〔カラス〕久保」であろうというもの。

●このページだけでなく、三田用水の分水名については
 三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59 p.51
 に依拠して、あらかたのネットに書かれているのだが、さらに、同書の記載は
 品川町史・中巻 pp.487,491
 に依拠していることが、とくに分水名の表示順からもわかる。

●しかし、「…三田用水」ひいては「町史・中巻」が、参照した古文書からの近現代文字への翻訳(「翻字」と呼ばれる)に問題があることは、これまでもいくつかの事例で明らかになっていた。

●実際

すでに、当ブログで報告済の

「溝が谷分水」の「澁が谷分水」
「実相寺山分水」の「定相寺山分水」
の誤翻字はほぼ疑う余地がない。

●今回のご指摘も「鳥」〔トリ〕と「烏」〔カラス〕との「1角違い」なので、誤翻字の可能性は限りなく高いので、お説の「※久保」について調べてみたら

地元の文献ということで
東京府荏原郡大崎町・編「大崎町誌 : 市郡合併記念」同町/S07・刊
p.101
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1879929/1/78
を見ると、確かに「烏久保」である。

但し、
中所眞「土地概評価 荏原郡大崎町 大正9年8月調」東京興信所/T11・刊
p.6
では「鳥久保」
とされているが、
・後者は民間企業発行物
というだけでなく、
・前者の大崎町は、町民の戸籍管理上地名については相応の精度が要求されていたので
その信ぴょう性には圧倒な差があるので、こちらに依拠するほかないし、そのうえ明らかな不合理もないので、
ここは
烏久保〔カラスクボ〕口、烏久保分水
と呼ぶのが正しいと判断すべきことがわかった。

 そのため、今後、当ブログ内の「鳥久保」については、見つかり次第「烏久保」と校正することにする。

5 件のコメント:

  1. はじめまして。大変深く多面的な分析に圧倒されております。ありがとうございます。

    1点、ご連絡したく投稿します。
    私は代々上大崎に在住する者なのですが、「鳥久保分水」という表記に違和感がございまして・・・。

    というのも、曾祖父の時代(明治初期頃~)からこの地に住んでいるのですが、代々、我が家では、あの辺りを「カラスクボ」と言っておりました。古地図を見ると、烏久保という表記もみられ、やはり、烏久保(カラスクボ)なのではないかと思います。

    烏と鳥で見間違えたまま、現代の色々な文献にも鳥久保と表記されるものが多く、少し残念に思っています。

    今となってはどちらが正しいのかわかりませんが、一応、お伝えさせていただきますね。
    どうぞよろしくお願いいたします。

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    1. なかの様。ご指摘ありがとうございます
       分水名の「翻字」には、このブログ中でも触れていますが、すでに「溝ケ谷」が「澁が谷」、「實相寺山」が「定相寺山」という問題が判明しておりましたので、まずは、地元の文献ということで
      東京府荏原郡大崎町・編「大崎町誌 : 市郡合併記念」同町/S07・刊
      p.101
      https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1879929/1/78
      を見ると、確かに「烏久保」です。
       これが「鳥久保分水」に化けたのは、他と同様、おそらく
      品川町史・中巻 pp.487,491
      がはじまりで、それを
      三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59 p.51
      などで、いわば孫引きしたせいでしょう。

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    2. 訂正:大崎町史 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1879929/1/77 です。

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  2. 早速のご返信、並びに、文献を遡ってのご確認、ありがとうございました。
    確かに、リンク先を見ますと、烏久保の表記になっていますね。祖母がカラスクボと言っていたのは間違いではなかったようで、安堵いたしました・笑

    ちょっとした見間違えからの孫引きというのはよくあることかと思います。歴史はそのようにして現代に受け継がれているというのがよくわかりました。

    色々とお調いただきまして、大変勉強になりました、感服するばかりです。

    もう1点、別件です。実家の敷地前が私道なのですが、境界石のうちの2つに「用水」という文字が刻まれています。
    私道は地図上の三田用水と目黒通りの間に位置します。

    父は戦後の混乱期に、三田用水脇から私道のほうに持ち込まれたものではないかというのですが、もしかして、実は、江戸の頃、水路だったのかな、という気もしています。
    謎は深まるばかりです・笑

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    1. 昔の崩し字の文書を解読して文字起こしする(翻字)は結構面倒な作業で、それも、幕府の公式文書とか民間の文書でも幕府などに正式に提出したものならともかく、この種の「村方」の文書で目にすることができるのは、村役人などによる正式な文書の控えが多く、「後で自分か見て思い出せればよい」といった類のくずしまくりのものも多々あります。そのような場合、かなりいい加減に書いても、関係者ならば「烏」を「鳥」と読み間違えることはありません。しかし、無関係な後世の人が読むとなると、悩みの種になります。

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