2017年4月1日土曜日

錢瓶窪右岸分水と千代が池

■先に…

当ブログの
「錢瓶窪右岸分水」
http://mitaditch.blogspot.jp/2016/11/blog-post_6.html

で少し触れたように、この周辺地域は、江戸時代から江戸郊外の中では比較的街場が開け、また、日本鐡道品川線(現JR山手線)の目黒駅(2代目)のある永峯に近いことから、M42測T06修測の1万分の1地形図「三田」の段階では、すでに雛壇状の宅地に造成されていて、元の地形が全く読みとれなくなっている。

■しかし…

国立公文書館で、錢瓶窪右岸分水を示していることにほぼ疑う余地の無い図面が昨年秋に見つかり、また、T06年図でも、まだ、江戸時代に松平主殿の抱屋敷「絶景観」の中にあった名勝「千代が池」がまだ残存しているので、分水路と千代が池との位置関係や、広重の錦絵がどこから描かれた光景なのかを分析してみたいと思っていた。

■残念なことに…

手許にある1万分の1「三田」図は、T06修測図しかないので、なんとかM42測図を入手したかったのだが、なかなか古書市場にもネットオークションにも出現してくれなかったのである(西隣の「世田谷図」は入手できた)。

■そんな折…

ネットオークションで、東京首部、中野、東京南部、世田谷の4枚の2万分の1地形図を剥ぎ合わせた地図を入手できた。

 出品者の説明では、T06年図ということであり、確かに、書誌が確認できる左葉はT06発行の、中野図はT04、世田谷図はT02鉄補図だったのだが、右葉下の東京南部図には、明治45年ころまでに廃止されたはず*1の目黒火薬庫軍用線*2が描かれているので、大正以降に修測される前のM42測図と考えられた。

 はたして、同図の錢瓶窪、千代が池周辺は、深い谷が目黒川左(東)岸の崖線を削っていて、宅地造成前の当地の原地形を示している。

[推定]M42 測1/20000地形簾「東京南部」〔部分〕
赤矢印が千代が池
上部中央からやや右下に向かっているのが火薬庫軍用線































追記】2021/01/29
M42測1/10000地形図をネット上に見つけた

同図による銭瓶窪、千代ケ池附近

ほかにも、とくに同図西の範囲は、M20内務省図の図郭外のため、
細かく見てみたい場所も多いので、このサイトは非常にありがたい。





























*1 各国立公文書館・アジア歴史アーカイブ
目黒火薬製造所元軽便鉄道敷地の内不用地還付の件
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C02031567000

目黒火薬製造所及白金火薬庫間軌道敷地還付の件
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C02031332900

*2 同上
火薬運搬軌道敷設ノ為メ土地収用法適用ノ件附図・閣議案ハ三十四年公文雑纂巻十九陸軍省ニ載ス
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A10111081200
図面上、機関庫らしきものも、馬小屋らしきものも描かれていないので、人が貨車を押す人車軌道ではないかと推測している。

■これで…

ある程度目途が立ったので、
・地番境や銭瓶窪右岸分水からの水路が明瞭に描かれている
   いわゆる郵便地図
   (東京逓信管理局作成「荏原郡目黒村全図」逓信協会/M44・刊
   <http://www.meguro-library.jp/data/oldmap/map4/>参照)
・昨年見つけた国立公文書館の
   錢瓶窪右岸分水の図面
・2万分の1地形図「東京南部」を赤/透明に変換した図
を順次重ねてみた。



■細かい…

部分では微妙に整合しない部分はあるが、さすがに明治末期の地図2枚は位置・角度とも問題なく重なったし、同12年の図面も少し縦横比を修正するだけで、大きな矛盾なく重ねることができた。

 これをみると、この千代が池には、分水路から青矢印のような水路を掘り割って千代が池に広重の錦絵のような滝を仕掛け、北端の黄色矢印のあたりの池尻から元の分水路に余水を落としていたらしいことがわかる。

 また、
この分水路は、最上流部の等高線から推して、三田用水開鑿時に、もともとこの辺りにあった小河川の谷頭部に用水からの水路をつないだものらしいこと
千代が池も、 この小河川が、人為的にあるい崖の崩落で自然に、堰き止められてできたらしいこと
がわかる。

■廣重の…

錦絵は、千代が池の南西にあった絶景観構外の道路から、黄緑色の矢印方向に描かれたのだろう。


廣重・絵本江戸土産「目黒千代が池」




 

廣重・名所江戸百景「目黒千代が池」
なお、大名の抱屋敷である絶景観内部を、構外の道路から眺めることができた理由は、冒頭の別アーティクル参照。

 また、この道路が、当時から存在したことは、幕府の普請方が、いわゆる沿革図書の一環として作成したらしい地図を見れば明らかだろう。

「弘化三年九月調 白金…碑文谷 一圓乃繪圖」〔国会図書館ID:2587256〕
から抜粋した画像を回転のうえ矢印加筆

国立公文書館・蔵:内閣文庫「遊歴雑記 6」
 資料番号:M2018041110543919474 78コマ目左
  
文政年代(1820年ころ)
十方庵敬順・筆の写




【追記】
この銭瓶〔噛〕窪右岸分水は、明治33年、その水利権が、日本麦酒に譲渡されている。
(小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」pp.113・114)
<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2011/12/d5dee0a2422f6d5ba003d7be3dad345a.pdf>)


6 件のコメント:

  1. 今から30年以上前の記憶ですが、千代が池の跡地と推定される、都立教育研究所(現 警視庁合同庁舎)の敷地内の崖からは、一年中大雨が降ったように滾々と水が湧き出ていました。そのため地階周辺の地面は常に濡れて藻のようなものでおおわれてスケートリンクのようにツルツルと滑りました。

    隣地とのコンクリートの塀からも水が染み出していて、苔で緑色をしていました。

    現在は、目視で確認する限りは完全に枯れてしまったようですが、もともと湧水も豊富な場所だったのであろうと思います。

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    1. コメントありがとうございます。
       もとからあった湧水を水源とする小河川に三田用水からの分水路をつないでいたと思われますので、地中の水みちは、いくら埋め立てても簡単に無くなるわけもなく、何らかの原因で地中の水が増えれば、傾斜地のどこかで地中の隙間から湧き出すのでしょうね。
       今は、過去とは一転して、雨水を地中へ浸透させることが奨励されていますので、ご覧になった湧水がいつかまた復活するかもしれませんね。

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    2. ところで、茶屋坂の上のほうにあった「用水境」の石が9月の中頃ついに切られてしまいました。今は、境界石のあった民家の軒先にそとから見えるように飾られています。

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    3. 結構通った場所なのですが「用水境の石」。不覚にも全く存じませんでした。道路の、アスファルトに半分埋もれながら点々と続く境界石に気を奪われていたせいでしょうか。そういえば、あそこの、道路上の黄色いラインの中の「私道」の表記。まず、表記が消え、土地の処分に伴って黄色いラインも消えてしまいましたよね。

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  3. ご無沙汰しています。ちょうど黄色線も家の建築に合わせ前の道路を掘り起こしたタイミングで、消されていました。。境界石は、水路のある平地ではなく、坂をほんの数メートルくだったところに地面から10センチくらい突き出た完全な形でのこっていました。歩道ですが、タイル舗装がされているので私有地なのだと思います。普段はカラーコーンが被されていたので、昔から見ていなければ存在自体に気づけないかもしれません。明らかに往来の邪魔なのでいつ切られてしまうか心配ではあったのですが。

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