2017年7月26日水曜日

三田用水のミッシング・リンク解消〔その2:防衛庁技術研究所〕

「ブラタモリ」〔=NHK〕が解明した、三田用水の2つのミッシング・リンク〔その2つ目〕

こちらは…

ミッシングリンクというほどのことでもないのですが、
現・防衛装備庁艦艇装備研究所 <http://www.mod.go.jp/atla/kansouken.html>
の実験用水槽の水。


画面手前横方向の緑色の屋根の細長い建屋が実験用水槽
手前側の三角屋根が「大水槽棟」。奥側のカマボコ形の屋根が「高速水槽棟」




















 ここの構内の建物の配置や、これら2つの実験用水槽など構内の施設の規模や機能の詳細については、
 
佐藤隆一「防衛庁技術研究本部第1研究所」(TECHNO MARINE 日本造船学会誌/第875〔平成159月号〕)
 
に詳しいので、そちらをご参照いただくことにして、ここでは「水槽」の話。
 
■水槽といえば…
 
ここには、屋内の2つの水槽(実際には、ほかにも「中水槽」「無響水槽」などがある)のほかに、屋外、敷地南西端、上の写真でいうと左端に写り込んでいる高い煙突のある清掃工場の向かい側の、現在、統幕学校(かつての、陸軍/海軍大学校に相当するようである)、幹部学校(同じく、陸軍士官学校、海軍兵学校に相当すると思われる)のある場所(煙突右の立方体に近い形のビル)に、「旋回円形水槽」という円形のプールと「旋回実験池」という略紡錘型の池があって(下図参照)、屋内水槽やこれらの水槽に「三田用水の水が使われていた」とかねてから言われていましたのですが、これまで「ウラ」が取れていなかったのです
 
Army Map Service〔A.M.S.〕(U.S.A.)1946制作
"TOKYO AND ENVIRONS, SHEET 12 - NIHOMBASHI"
テキサス大学図書館・蔵<http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-12.jpg> 〔抜粋〕
 ■「ブラタモリ」に…
 
登場したのは、これらのうち「大水槽」。
 
佐藤・前掲p.103によると
長さ 255m × 幅 12.5m × 深さ 7.5m 昭和5年竣工
 
(なお、隣の高速水槽は
長さ 346.5m × 幅 6m × 深さ 3m 戦前に着工・戦後竣工)

なので、容積は 2万3906.25 立法メートル(放送では1.8万トンとされていますが、水槽に、いわば「波風を立てて」実験することもあるので、7.5メートルの縁ギリギリまで水は入れられないためと思われ*、これを水深に換算すると5.65メートル)

(高速水槽の方は6237立方メートルなので、その約4倍)

*佐藤・前掲p.106
 
■今回の放送での…
 大きな収穫は、明治13年に開設された海軍(後に陸軍)の火薬製造所時代、火薬製造所が大正12年の関東地震で全焼したのを機に移転された後、昭和に入ってからの海軍技術研究所時代(この間、昭和21年までは、明確な裏付けがある)だけでなく、防衛庁(当時)技術研究本部第1技術研究所となった後も(その前の連合軍による接収時期*を除いて) 昭和48年にここの構内の暗渠が破損して通水が停止されるまで(公式な通水終了は、昭和49年8月31日)、三田用水の水がここで使われていたことの裏付けがとれたことにあります。

*高速水槽が未完成なので、連合軍による接収解除後間もないと思われる時期の構内図が、
 HONDASO氏のTweet記事中にあった。
 https://pbs.twimg.com/media/CdJEA72UYAEftFO.jpg
 ここに描かれている、三田用水から目黒川への分水。謎である。
 
 しかも、驚いたことに、現在の大水槽に貯留されている水の、約4割つまり4500トンは三田用水の水が残っている、ということでした。
 
■とはいえ…
 
三田用水の水は、元を質せは玉川上水、ひいては、多摩川の水なので、たとえば「地底湖に封じ込められた5万年前の水」などどいうのに比べれば、それほどのインパクトではなく、やはり、昭和21年から48年までのミッシングリンクが繋がった*ことの方が、個人的には1番の収穫といえます。
 
*なお、佐藤・前掲pp.103-104によれば、この敷地が昭和31年ころ連合国による接収が解除されたときには「大水槽側壁のクラックは総延長約1600mに及んでいたがセメントガン吹付工法による防水工事が行われた」〔原典は高比良善郎「防衛庁技術研究本部第一研究所水槽施設復旧工事に関する報告」の由〕とされているので、現在大水槽にある水は、間違いなく「戦後の水」なのである。
 

2017年7月22日土曜日

三田用水のミッシング・リンク解消〔その1:目黒雅叙園〕

「ブラタモリ」〔=NHK〕が解明した、三田用水の2つのミッシング・リンク〔その1つ目〕

■タイムシフトのために…
「録画しといて後で見る」結果になった、
平成27年12月17日放映の、ブラタモリ「『目黒篇』~目黒は江戸のリゾート!?~」

 そう、べらぼうに忙しかったわけではなかったのですが、いわゆる「気がせく」というやつで、21日深夜の再放送を、翌晩になって早送りしながら見たのですが…

■それだけでも…
ラスト近くの目黒雅叙園の、かつて三田用水の水が流れていた人工の渓流痕の画像のインパクトは強烈で、ここだけは何度も見返して、ここ10数年抱えていた疑問が一気に氷解したのでした*

*これ、法政大の根崎教授の研究成果のようで、同教授、2010年放映のブラタモリ「鷹狩篇」に出演されたときには「あれっ?」で思う発言もあったのですが、その後書かれた論文では、しっかり修正されていて、ずっと、研究を続けておられることがわかった次第。

■その、目黒雅叙園…
いわゆる三田用水事件の際、1審の東京地裁や2審(控訴審)の東京高裁の判決で、組合の水利権は否定されたものの、用水の水路の土地の所有権を組合に認めたのを不服として、最高裁に国側が上告した、その不服の理由の中に、当時、目黒雅叙園が三田用水の水を引水していることに言及する部分があり、
  • 国が最高裁に提出した書面の中に書いていること
  • 全体の文脈の中で、雅叙園の引水は、国の主張にとって、むしろ不利な事情ともいえるのに、あえて書いていること
から、まず間違いはないだろう、とは判断していたものの、水を、どこにどう使っていたのかについては、それ以上には全く情報がなかったのです。
 
■そんな中で…
唯一見つけたのが、
http://masabou.blog.so-net.ne.jp/2008-06-06
の、雅叙園にお勤めのお父上が案内人となったツアーに参加されたご子息のリポートだったのですが、お身内がらみの話のせいでもあるのか、肝心のところがはっきりせず、わかったのは
「どこかの部屋の奥の窓から、三田用水の水が流れていた痕跡が見える」
ということ(ブラタモリで判明したところによれば、これは、その限りでは100パーセント正確でしたが)に止まっています

■Web上でときどき見かける…
絵葉書(後掲のとおり、今回原典を入手)をみても、どうやら
「敷地の北東にある本館と呼ばれていた建物の南に
 かつて池があって
 そこに滝が落ちていた」
というところまでは分かりましたが、
東京都立中央図書館にある、この
http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?qf=&q=%E9%9B%85%E5%8F%99%E5%9C%92&start=16&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&tilcod=0000000007-00004654&mode=result&category=
鳥瞰図を見ると、滝といっても庭園内に何か所もあるようですし、

敷地全体の平面図も見つかっていなかったので*、水路の位置などを推定しようがなかったのです。

*建物だけの平面図なら「スパーアート・ゴク― 1981年1月号」パルコ出版・刊p.8にあった。
 改修・改築されてしまっているし、前述の池は、そのはるか前に無くなっているようなので(末尾の地図参照)、

 今更見に行っても無駄。

■今回の…
「ブラタモリ」でわかったのは、雅叙園の先の大改築の折にも残された「100段階段」*の南に沿って傾斜地にいくつか座敷棟が設けられ、それらの南端の窓の直下に渓流が設えられていて、そこを三田用水の水が流れていたようなのです。

*「100段」だと、いわば究極あるいは完成してしまったことになり「後は朽ちて行くだけ」になるので、縁起を担いで、実際には99段らしい。「100」を、日本人が、いわば本能的に避けることは、「馬込99谷」とか「代々木99谷」などをはじめ、類例も多い。

■そこで…
「100段階段」沿いの座敷の写真を探してみたのですが、ほとんどが座敷の内側の写真ばかりだったのですが、1枚だけ見つかりました。


 「100段階段」沿いには、東端の最上部の「頂上の間」*から西に向かって合計7つの座敷**が並んでいるのですが、これは、一番低い西端にある「十畝荘〔じっぽそう〕」の写真彩色絵はがき。
 左端に渓流が写り込んでいます。
 下流で少し左に水路が曲がっているように見えますが、その先が本館(当時)から正面やや左に見える場所にあった滝につながっていたようです。

* ブラタモリに登場したのは、この部屋
**上から3,4室目を除き、各間が独立棟となっている
 なお、ここ
 http://chiakih.cocolog-nifty.com/ic/2006/01/post_af8c.html
 の上から21枚目に10年ほど前の渓流跡の写真がある。












なお、(やや不正確ながら)20世紀末の改築前の敷地の地図を示す



東京都港区立三田図書館・編
「近代沿革図集 別冊Ⅰ  安永・昭和対照図」
同館/昭和59年・刊 のうち「昭和図」中
 「駒場・祐天寺・碑文谷・渋谷・目黒・大崎(左下)」より一部引用
青線が推定される渓流の流路

2017年7月21日金曜日

「都市伝説」を正す(駒沢通り篇)

■かつて…

テレ朝の『タモリ倶楽部』の制作会社のディレクターさんとADさんに、現地のほんの一部ですが、東大先端研/生産研あたりを歩きながら、三田用水に関する情報提供をしたことがあります。

2009年5月16日放映の「好評! 都内歩いているだけ企画、三田用水のこん跡を巡る!」
の事前取材への対応だったのですが、たしか放映の数日前、ADさんから、仕事場に電話がかかってきて
「昔、三田用水の橋がかかっていた鎗が崎なんですが、都電を通す*ために道を広げたって、本当なんでしょうか?」

* http://showa.mainichi.jp/ikeda1960/2008/05/ik057310.html

■こちらも…

以前、それらしい話は耳にというかネット上で目にしたことはあるのですが、その種の「都市伝説」めいた話は結構多いので、改まって調べたことがなく、一晩かけて調べた結果、資料(後記【参考資料】など)付きで回答したメールは、概略以下のような内容でした。

  • 明治13年から42年の間にできていた、駒沢通りの原型となる用水の下をトンネルで潜っていた道路を
  • 東京の都市計画事業(正確には「東京市区改正事業」)の一環として、都市計画道路*として整備・拡張するために作られ
  • その結果、広がった道を「玉川電気鉄道」が通った
  というのが「正解」だと思います。

  *正確には「道路」→「街路」

■この「大筋」は…

その後見つかった資料からみても、変わらない、というか、むしろ確実なものになっていて、この駒沢通りの玉川電車は、後に東京都電に編入されたので、その点では間違いとまではいえないものの、

「『都電を通すために道を広げた」という話は、単なる『都市伝説』だ」

というのは確かだと思います。

■当の番組では…

「明治時代 都市計画の一環として ここにあった崖を切り崩して 道路が作られました」
というナレーションになっていました。

 大きく括れば「バラエティ」に属する番組なのですが、かなり本格的に内容を「考証」しようとしていることを知って、少々見直した覚えがあります*

*タモリさんの地形・地理への「こだわり」が影響しているのかもしれませんが、CM制作などに長く関わっていた友人によると、この制作会社は、業界では、かなり「しっかりしている」ことで定評のあるプロダクションの一つの由。

■ところが…

市電ではないものの「路面電車を通すために広げた」といってもよい道路が本当にあったのです。

 先の鎗が崎を通る駒沢通りのことを、渋谷町(区)では「下通〔しもとおり〕」と呼んでいました。

 「下」があるから「上」もあるんだろうということになりますが、そのとおりで、今の「246」というか「玉川通り」というか「厚木街道」が「上通」で、玉川通りと新山手通りの交差点、現・神泉町交差点は、長く「上通3丁目交差点」でした。

 実は、もう一つ「中通」という道があって、今の明治通りの澁谷・恵比寿(澁谷橋)間など現・渋谷区内の部分がそれなのですが、この中通が、どうやら、路面電車を通す「ために」広げられたといってもよい道なのです。

■一般に…
市販されたものではないのですが

 有田肇・著「朝倉虎治郎翁事跡概要」東京朝報社/昭和10年1月・刊

という本があります。

 この朝倉虎治郎というのは、一言でいえば「代官山ヒルサイドテラスのご先祖様」。澁谷村/町/区会議員、東京府/市会議員などを務めた人物です。

澁谷町・編「澁谷町字名地番改正誌」同町/昭和3年・刊 口絵 より


■この本の…
30ページ以下の「道路に関する事跡」中に

大正九年度には東京府郡部經濟に於て空前の大事業と稱された厚木街道裏道、今の中通の改修計畫が府會を通過した。

初め此の道路は澁谷川に沿ふ五間幅片側町の案であつたが、將來の繁榮の爲には幅員を廣くし兩側町となすことが有利である、然し最初より其の計畫を立てるときは尨大なる豫算となり、他郡他町村會議員の嫉妬を受けて反對される危險があるので、朝倉は計畫を二段に立て右の案を出したのであった。そこで右の案が府會を通過すると同時に朝倉は玉川電鐡會社に對し町理事者を以て、此の機會に會社が更に五間幅の增擴張費を寄附して、軌道敷設讙を獲得することを勧め、叉同時に公友會をして兩側町に計畫變更要望の民衆運動を起さしめ、三角關係の幾折衝を重ねた上で、今日の電車が通ふ九間幅の兩側町が出来上ったのである。
」pp.47~49
との記述がありました。

 つまり、今の明治通り(の一部)は、
  • 当初は、渋谷川の縁に幅員約9メートルの道路を設ける計画だった
大正10年 東京府豊多摩郡澁谷町平面圖(部分)
大正9年に府議会で決議された「幅5間の道路」の計画
位置を、既存の地図上に重ね書きしたものと思われる。

  • それが、軌道を敷設するための玉川電鉄の寄附によって、渋谷川からやや離れた位置に両側に街区のある幅員約16メートルの道路に計画変更され
  • 拡張された幅7メートルの部分を使って、渋谷-天現寺橋間2.6kmの「玉電 天現寺線」が敷設された
大正15年 東京府豊多摩郡澁谷町全圖(部分)
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1231.html
 ということになります。

■結局

「電車を通す『ために』広げられた道路」といえるのは、中通、つまり、今の明治通りであり、
下通、つまり今の駒沢通りの方は「道路が広がることになったので電車を通した」という、よくある話に過ぎないことになります。

 下通にかかわる先の「伝説」は(ままあることですが)中通の話が、こちらの話にすり替わった結果、といえそうです。

【参考資料】
「土木建築工事画報」
  http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/

第9巻6号「東京都市計画事業の沿革」
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/09-06/09-06-1827.pdf

第15巻1号「東京府施行都市計画道路工事」
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/15-01/15-01-2737.pdf

2017年6月25日日曜日

上大崎村の溜井(池)新田

北沢川文化遺産保存の会…
<http://blog.livedoor.jp/rail777/>恒例のツアー「都市物語を旅する会」の一環、
2017年6月24日の「第2期第4区 大日本麦酒工場跡~五反田駅」
のご案内をさせていただいた。

そのツアーの終盤の…
目玉と考えていた場所に、日本鉄道品川線(現・JR山手線)開通時に目黒駅のあった、三田用水の鳥久保分水末流に近い場所(下図赤丸)がある。

迅速測図〔M13〕抜粋に
三田用水路=紫線、鳥久保分水路=青線、水車場=空色星印を各補入

初代目黒駅のことは…
今回措くとして、この地域に興味を持った理由は

高島緑雄「関東中世水田の研究」日本経済評論社/1997・刊

のpp.65・66に

…そこはJR山手線五反田駅の西北方約五〇〇メートルの地点で、白金台地を刻んできた目黒左記岸低地に開口する「西」・「中」・「東」の三本の狭短な谷が合わさった出口である。ちなみに一九〇九年地形図によると、JR山手線が五反田駅と目黒駅間を登り下りする線路は、「西」側の谷の傾斜を利用して敷設されている。また地形図が目黒駅南の切り通しになった谷頭付近に付した地名は、「西ノ谷」である*…。
 このような溜池の立地は、この溜池の機能が、明らかに二本の谷水を谷口で貯留し、目黒川左岸低地所在の水田を灌漑するものであったことを明らかにする。寛文四年(一六六四)に下北沢村で玉川上水を分水し、芝白金御殿に通水した上水で、享保八年(一七一三)に用水に転用された三田用水が、「中」の谷を経由して目黒川左岸低地の水田に注がれると、同池はその役割を終えて溜井新田に変化するのである。

とあったからである。


* 加えて「『中』の谷」の地名は、上流部は分水名の起源と思われる「鳥久保」だが、下流部の溜井新田のあたりは「池ノ谷」という、いわば「そのまんま」の名前である。
 (国会図書館・蔵「土地概評価. 荏原郡大崎町 大正9年8月調」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921562/6
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921562/7
 参照)

つまり…

高島教授の考えでは、
  • 後に三田用水鳥久保分水となった谷を中心にその東西2つの谷からの合流点に、(おそらく中世期にこの地に水田が拓かれたときに)溜井(池)が設けられ、その水が、そこから、南の目黒川に至る地域の水田の灌漑に使われていた*
  • その後、中央の谷が三田用水の鳥久保分水となって、上流から恒常的に水が供給可能となったため、溜井(池)が不要となったので、干拓するなどして水田に転用された
ということになるし、現に同書p.66に引用されている弘化2(1845)年の宿村絵図によると、同地が「(上大崎村)溜井新田」、つまり、「元は溜井だった場所に新たに開かれた田**」を意味する地名で呼ばれていたことがわかる。

* 「言われてみれば当り前」のことながら、中世期、水田とこれに灌漑する溜井の水を一定のルールに従って使う権利とは、いわば1セットで売買などの取引の対象となっていた。
 宝月圭吾「中世売券よりみた池灌漑について」(「風俗」第17巻2・3号 日本風俗史学会/S54/04・刊)pp.1-12


**「新田」といっても必ずしも「水田」を指すわけではない(畑であることも多い)。
    ただ、この地の場合は、地形的にも水利の面でも水田と考えてよいだろう。


なお…

この地については、幕府普請方制作の「御府内場末往還其外沿革圖書」中の広域図である
「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」国会図書館・蔵
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9370094/2>
にも「溜池新田」と表示されていて、この地名がかなり「固定」されていたことがわかる。



 (なお、「弘化三午年九月調 麻布…碑文谷村一圓之繪圖 三枚之内中」国会図書館・蔵〔pid=2587256〕も同じ)

こうなると…
高島教授のいう溜池の新田への転換と、当方のメインテーマである三田(上)用水との関連について、さらに詳しく情報の分析をしてみたいところなので、まずは、新編武蔵風土記稿で、鳥久保分水の水の引取先とされている*上大崎村と谷山〔ややま〕村の件を見てみると

*品川町役場・編「品川町史 中巻」同町役場/S07 /06/10・刊 p.487
 <https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&pg=PT515&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwibhd2prdjUAhUEEbwKHUVsDJIQ6AEILjAD#v=onepage&q=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&f=false>

●上大崎村

 …撿地ハ元禄八年織田越前守改メシ後享保十七年筧播磨守新田を撿ス

●谷山村

 …享保五年筧播磨守撿地セリト云コレハコノ頃新墾ノ田アリシ故ナルヘシ

とあって、少なくとも上大崎村については三田用水の開鑿と時期的に整合することがわかった。
 
ところで…
この溜井(池)新田のことを知った4年ほど前から、まだ溜井(池)のあった時代の地図を探していたのであるが、実は「探す」までもなく、すでに6年以上前からPCの中に眠っていたことが、今朝になって、わかってしまった。
 
それが
「江戸方角安見図」
という、幕末にいわば大流行した切絵図の原型3系統のうちの1系統とされる*、延宝8(1681)年**刊行の地図(帳)である。
 
*朝倉治彦・編「江戸方角安見図」東京堂出版/S50/12/25・刊p.4

**三田「上」水の開鑿(寛文4〔1664〕年)から17年後
  三田「用」水の開鑿(享保9〔1724〕年)に43年先立つ

 
国会図書館・蔵〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575024/28
の図を抜粋+反時計回りに90度転回+画像調整
図の右下の青塗り部分が溜井
 
この図を最初に早稲田大学のライブラリ(こちらにもある)の方からダウンロードして観察したときは(三田用水の経路が含まれているので、チェックの対象だった)いわゆる「事実の理論負荷性」というやつで、この青塗り部分が溜池とは全く思いも及ばず、南方にあるので目黒川を簡略化して表現したものか、などと漠然と考えていた。
 
しかし、今あらためて見てみると、青塗の左下に「トクセウシ」つまり、今の山手線の南側線路際にあって目黒川からはそこそこ北に離れている徳蔵寺(念の為濁点をふると「トクゼウジ」)


2017/06/08撮影
〔Sonyα7R+Elmarit28(4th.)〕

が表示されているので(前掲「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」左下付近の赤塗部参照、青塗部が目黒川であるわけがなく、高島教授の指摘する溜井を表現していることに疑いはない。

【追加調査】

■ここまでわかったので…

はたして、この池がいつごろまであったのかを調べてみたくなった。

 かつては、探すのに苦労したのだが、最近は、幸い国会図書館のデジタルライブラリで、膨大な「江戸大絵圖」の精彩なデータを見ることができるようになり、むしろ、選択に迷うほどとなっている。

■まずは…

三田「上」水時代の、ほぼ最後(享保7〔1722〕年)の状態といえる

●享保2 〔1717〕年の「分間江戸大絵図」

 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542439/3
 を見ると、同所(以下、いずれも左上隅付近)には「池」が表示されている。

以後、三田用水開鑿(享保9〔1724〕年)以降も

●享保14〔1729〕年の「分間江戸大絵圖」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542498/3

をはじめ、「池」が描かれた状態が続くが、変化が現れるのは

●延享5〔1748〕年「分間延享江戸大絵図」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542456/3


あたりからで、同図では、墨刷りの版では「池」が表示されているものの、たとえば、東の雉子神社の往還を隔てた向かいにある池については、青色の版で彩色されているのに対し、この上大崎の池には彩色がない。

そして、その後約半世紀を隔てた

●享和3〔1803〕年「分間江戸大絵図 完」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286186
 に至って「池」が消滅している。
 
■もう少し…
 
細かく時系列が追えればよいのだが、それでも
  • いわゆる「御府内」ならともかく、郷村に属するこの地域について、地図の制作・改訂にあたって、どこまで本格的に踏査したかについて疑いが残る
  • 水を張ってまだ田植えする前の水田と溜井とでは、遠目では見境いを付けにくい
  • 制作・改訂のための調査の時期と地図の刊行との間には、現代でも一定のタイムラグがあるのだから、往時ではなおさらである

こともあって、これ以上の解明はなかなか難しそうである。

2017年6月13日火曜日

2016年9月21日 代官山での講演記録

■昨2016年9月21日に…

代官山ステキサロンで「三田用水略史」と題してお話させていただいた記録が
 
リ・ニューアル中の「代官山ホームページ」
http://www.daikanyama.ne.jp/

に掲載されました。
http://npodsi.sakura.ne.jp/dhp2017/mitayosui/file04.pdf

■ちょうど…

当ブログの

【余録】「旧山手通り」は、なぜ「『旧』山手通り」なのか?
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/03/blog-post_18.html
の序論にあたる内容です。

併せてお読みいただければ幸いです。


2017年6月6日火曜日

【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合

■小坂克信先生から…
羽村市郷土博物館・編「羽村市郷土博物館紀要 第三十一号」同市教育委員会/平成20年3月30日・刊
をお送りいただいた。

■左から開く…
縦組みのページの中の
出版社であるクオリの代表者である
http://bigai.world.coocan.jp/msand/miwa/kuori.html

比留間 博「玉川上水十三里小考」〔同紀要pp.24-30〕
は、大変興味深いものの、その内容の検証には、この先、かなり時間がかかりそうなので、「後回し」というか今後の課題にしておくことにする。

■と、いうわけで…
同紀要中の
 小坂克信「武蔵野台地における玉川上水の水利用」〔同紀要pp.31-53〕
の方をじっくりと読ませていただいた。
 内容的には、小坂先生の、これまでの研究成果の、いわば集大成の要約。
 とくに、近世の享保あたりから昭和の時代に至るまでの、当方のメインテーマである三田用水史を含めて、時系列的にコンパクトにまとめられているので有難く読んでいたところ

■その…
46ページの「表6 昭和6年6月 玉川上水の分水 (東京市第二水道計画参考書)」なる表〔以下「分水表」という〕を見て「ビックリ」。
 かねてから、欲しかったデータの一つだったのである。

■と、いうのも…
この昭和6年当時のデータによれば、三田用水普通水利組合〔以下「組合」〕による三田用水の給水先は
飲料水に使用している者(推定)    0人
雑用水に使用している者(推定)    0人
田反別(=田用水に使用している面積) 0反
水車数(精穀・工業)            0基
工場                     3か所
庭園                     14か所
となっている。

■つまりは…
この昭和6(1931)年の時点では、もともとは農業用水だったはずの三田用水の水で灌漑する田圃はゼロで、結局は

3か所の工場と
14か所の庭園(つまり、池の水)

に給水するため「だけ」に組合が存続していたことになる。

■これらの「水の使用者」のうち…
「池の水」については、もう少し調べなければわからないのだが、
「工場」については、この論文の46ページによると
・海軍技術研究所
・ヱビスビール
・電信協会
の3か所の由。

 このうち
・海軍技術研究所 は、現・防衛省技術研究所
・ヱビスビール  は、現・エビスガーデンプレイス
の場所にあるのは自明、加えて
・電信協会    は、防衛省技術研究所の北隣りの別所坂上
にあったことがわかっている*

*一次資料が不明のため詳細は略すが、ある文献には、昭和27年当時の用水利用者として
・大日本麦酒(ヱビスビール)
のほか
・目黒雅叙園  <http://mitaditch.blogspot.jp/2017/07/1.html>で詳述
・東光園      (鑓が崎交差点付近)<http://npodsi.sakura.ne.jp/dhp2017/mitayosui/file04.pdf>のp.18参照
・日本交通公社 全く不明
が挙がっている。
そのほか、恵比寿の日の丸自動車教習所南の伊藤ハム(目黒区三田1-6-21。ただし、昭和33年当地に進出)を挙げる資料もあるが、これも出典不明。


■ここまでわかってくると…
これまで、ある程度まで想像はできてはいたものの、いわば「最後のウラが取れなかった」3つほどの問題について、はっきり、解明が可能になってきた。

■その懸案というのは…
3つあったのだが、そのうち2つは「ほぼ見当はついていたものの、最後のウラが取れなかった」という類の話なので、まずは残りの1つから。

■数少ない…
今も残る三田用水の遺構

①~④の遺構は、今後の,、図中にある環状4号線の工事で消滅することになる。
この街中に、こういった遺構が残っていたのには、それなりの「訳」があったのである。

の一つに、白金台の「石積の築堤」がある。


 ここは、いかにも存在感のある用水路の石積の築堤の西端が残されている場所ではあるのだが

渡部一二〔わたべ かつじ〕著「玉川上水系に関わる用水路網の環境調査」とうきゅう環境浄化財団/1980・刊
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E7%B3%BB%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8B%E7%94%A8%E6%B0%B4%E8%B7%AF%E7%B6%B2%E3%81%AE%E7%92%B0%E5%A2%83%E8%AA%BF%E6%9F%BB

のpp.355・356によると、現存している遺構から、上の写真の手前(東)方向の40~50メートルの部分が、渡部教授の調査時点である昭和54(1979)年3月3日当時〔p.358〕崩壊していた

渡部論文p.335より引用
という。

渡部前掲p.136 写真49


■かつてWeb上で…
情報を探すと、どうやら、1934(昭和9)年9月の室戸台風で決壊「(今里101 番地)旧町野武馬邸表庭に放水滝に上大崎へ流水。」*となったまま、放置されていたらしいことがわかってはいた。
https://www.city.minato.tokyo.jp/takanawachikusei/takanawa/koho/documents/takanawab2.pdf

*なお、https://ameblo.jp/henry7/entry-10368695526.html も参照

■問題は…
なぜ、決壊したまま放置されていたのか、にある。
 と、いうのも、この場所は、江戸時代から築堤(築立場)を作って用水を通していた場所らしいのだが、


国会図書館・藏「御府内場末往還其外沿革図」より


大正12年の関東地震でそれが崩壊し、おそらく昭和2年まで時間と3500円という大金をかけて、石積みの築堤を再構築した*はずの場所だからである。

*三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同/S59/09/30・刊 p.277

■しかし…
先にみたように、この昭和9年当時、すでに
  • 流域に全く水田はないのだから、かりに三田用水全体の通水が止まっても、そのために困る農家は存在せず、その点では水車用水についても同様だし
  • 工業用水についても、需要者中の最下流にあるヱビスビール(当時は大日本麦酒)への分水口である、今の日の丸自動車のあたりにあった銭瓶窪口まで通水できれば足りていたのである。



■従って…
残るのは、庭園用水しかなく、現に問題の崩落場所のすぐ上流には、藤原銀次郎という三井出身の財界人の別荘があって、


藤原銀次郎茶庭
同「私のお茶」講談社/S33・刊


〔推定〕旧・藤原銀次郎邸庭水排水口跡
おそらく現存せず


なぜか旧藤原邸跡地にあった茶室風建物
2009/02/11撮影:現存していない

そこの池に水を供給していたのだが、それより下流に庭園水の需要者がいたのかどうかも不明なのであるし、いずれにせよ

  • 人の生命や企業の存亡にかかわる水ではなく
  • すでに近代水道(日本水道)が引かれていた地域でもあるし
  • なにより、年間の引水料が1軒につき17円程度*だったので、多額の費用をかけて築堤を再築しても採算が合わない可能性が高かった

ためと考えて大きな間違いはなさそうである。

*前掲「江戸の上水と三田用水」p.168の昭和7年度の「歳入歳出予算表」に「西郷従徳外三名」分の「用水使用量」として、前年度と同額の68円が計上されている。
 先の「分水表」の14軒と較べ、おそらくは上水道の普及によると思われるが、需要者が激減している。

【余談】

「藤原銀次郎の茶室」なるものを調べていると…

齊藤康彦「根津嘉一郎の茶会ネットワーク」
山梨大学教育人間科学部紀要  第 十三 巻 二〇一一年度
http://opac.lib.yamanashi.ac.jp/opac/repository/1/29184/13_XXXI-XLIII.pdf
p.32(pdfのp.2)によれば、この白金今里の藤原邸の茶室は、「暁雲庵」と名付けられていたことがわかった。

藤原銀次郎は、明治2(1869)年生まれ昭和35(1960)年死亡、昭和9(1934)年ころは65歳で当時としては驚異的ともいえる資本金額1億5000万円の王子製紙社長の時代であり、この時期、すでに当地に茶室を設けていたと考えてよい。
また、三田用水事件の第一審(東京地裁)判決(昭和36(1941)年)の「第三目録」の「二(2)(ホ)」に、三田用水の流路を特定する記載として「港区芝白金今里町九〇番地から一一七番地先(藤原銀次郎邸茶室脇から南里橋)まで。一一五・五間」とあるので、少なくともこの裁判が提起された昭和27年当時、この茶室は現存していたと考えられる。

 で、この「暁雲庵」、細かい経緯は不明ながら、なんと我が家の菩提寺である、杉並・梅里の三井寺〔「みいでら」ではなく「みついでら」〕こと真盛寺



に移されていたことがわかった。
http://goddoor70.exblog.jp/5993589/

 これまで、墓参の折などに写真は撮っていたのだが(なお、檀家・墓参者以外入山禁止)、最近はあらかた、境内にいる「地域猫」の写真



ばっかり。

 次回には、この、「暁雲庵」の写真を撮りたいところだが、同寺には、山門を入ってすぐ右の1棟


のほか、境内奥、本堂西に多分2棟の茶室があって、どれが「暁雲庵」なのやら…。

【余談追記】2017/08/13

従前眞盛寺からいただいた年表を確認したところ…

本堂西の奥庭にある茶室は、平成18年移築修理された武者小路千家由来の「一方庵」に加え、「泥子閑」*「寂庵」とのこと。

「暁雲庵」については、平成15(2008)年の条に「東海大学稲葉和也教授の縁にて三井不動産より世田谷区玉川、幽篁堂庭園より茶室暁雲庵・腰掛待合・江戸時代初期の四脚門、十三重石塔・石造諸塔・赤松等を譲り受け、表境内、及び奥殿の庭園を造園す。」とあり、上の写真が暁雲庵と考えて間違いないようである(今後、墓参や施餓鬼会の折にでも確認してみたい)。

*別の資料中に「坭子関」、「泥子関」との標記もある。

2017年4月1日土曜日

錢瓶窪右岸分水と千代が池

■先に…

当ブログの
「錢瓶窪右岸分水」
http://mitaditch.blogspot.jp/2016/11/blog-post_6.html

で少し触れたように、この周辺地域は、江戸時代から江戸郊外の中では比較的街場が開け、また、日本鐡道品川線(現JR山手線)の目黒駅(2代目)のある永峯に近いことから、M42測T06修測の1万分の1地形図「三田」の段階では、すでに雛壇状の宅地に造成されていて、元の地形が全く読みとれなくなっている。

■しかし…

国立公文書館で、錢瓶窪右岸分水を示していることにほぼ疑う余地の無い図面が昨年秋に見つかり、また、T06年図でも、まだ、江戸時代に松平主殿の抱屋敷「絶景観」の中にあった名勝「千代が池」がまだ残存しているので、分水路と千代が池との位置関係や、広重の錦絵がどこから描かれた光景なのかを分析してみたいと思っていた。

■残念なことに…

手許にある1万分の1「三田」図は、T06修測図しかないので、なんとかM42測図を入手したかったのだが、なかなか古書市場にもネットオークションにも出現してくれなかったのである(西隣の「世田谷図」は入手できた)。

■そんな折…

ネットオークションで、東京首部、中野、東京南部、世田谷の4枚の2万分の1地形図を剥ぎ合わせた地図を入手できた。

 出品者の説明では、T06年図ということであり、確かに、書誌が確認できる左葉はT06発行の、中野図はT04、世田谷図はT02鉄補図だったのだが、右葉下の東京南部図には、明治45年ころまでに廃止されたはず*1の目黒火薬庫軍用線*2が描かれているので、大正以降に修測される前のM42測図と考えられた。

 はたして、同図の錢瓶窪、千代が池周辺は、深い谷が目黒川左(東)岸の崖線を削っていて、宅地造成前の当地の原地形を示している。


[推定]M42 測1/20000地形簾「東京南部」〔部分〕
赤矢印が千代が池
*1 各国立公文書館・アジア歴史アーカイブ
目黒火薬製造所元軽便鉄道敷地の内不用地還付の件
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C02031567000

目黒火薬製造所及白金火薬庫間軌道敷地還付の件
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C02031332900

*2 同上
火薬運搬軌道敷設ノ為メ土地収用法適用ノ件附図・閣議案ハ三十四年公文雑纂巻十九陸軍省ニ載ス
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A10111081200
図面上、機関庫らしきものも、馬小屋らしきものも描かれていないので、人が貨車を押す人車軌道ではないかと推測している。

■これで…

ある程度目途が立ったので、
・地番境や銭瓶窪右岸分水からの水路が明瞭に描かれている
   いわゆる郵便地図
   (東京逓信管理局作成「荏原郡目黒村全図」逓信協会/M44・刊
   <http://www.meguro-library.jp/data/oldmap/map4/>参照)
・昨年見つけた国立公文書館の
   錢瓶窪右岸分水の図面
・2万分の1地形図「東京南部」を赤/透明に変換した図
を順次重ねてみた。



■細かい…

部分では微妙に整合しない部分はあるが、さすがに明治末期の地図2枚は位置・角度とも問題なく重なったし、同12年の図面も少し縦横比を修正するだけで、大きな矛盾なく重ねることができた。

 これをみると、この千代が池には、分水路から青矢印のような水路を掘り割って千代が池に広重の錦絵のような滝を仕掛け、北端の黄色矢印のあたりの池尻から元の分水路に余水を落としていたらしいことがわかる。

 また、
この分水路は、最上流部の等高線から推して、三田用水開鑿時に、もともとこの辺りにあった小河川の谷頭部に用水からの水路をつないだものらしいこと
千代が池も、 この小河川が、人為的にあるい崖の崩落で自然に、堰き止められてできたらしいこと
がわかる。

■廣重の…

錦絵は、千代が池の南西にあった絶景観構外の道路から、黄緑色の矢印方向に描かれたのだろう。


廣重・絵本江戸土産「目黒千代が池」




 
























廣重・名所江戸百景「目黒千代が池」
なお、大名の抱屋敷である絶景観内部を、構外の道路から眺めることができた理由は、冒頭の別アーティクル参照。

 また、この道路が、当時から存在したことは、幕府の普請方が、いわゆる沿革図書の一環として作成したらしい地図を見れば明らかだろう。

「弘化三年九月調 白金…碑文谷 一圓乃繪圖」〔国会図書館ID:2587256〕
から抜粋した画像を回転のうえ矢印加筆

【追記】
この銭瓶〔噛〕窪右岸分水は、明治33年、その水利権が、日本麦酒に譲渡されている。
(小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」pp.113・114)
<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2011/12/d5dee0a2422f6d5ba003d7be3dad345a.pdf>)



2017年3月18日土曜日

【余録】「旧山手通り」は、なぜ「『旧』山手通り」なのか?

■不思議な「ご縁」で…
NPO代官山ステキ総合研究所のイベントでお話させていただく機会も、去る2017年3月17日が3回目となりました。
 その
1回目、昨2016年初夏のときは、「水車」の話で、
2回目、同年9月のときは、「三田用水・鎗が崎の『土管』」なるもので、
それぞれ、お話しをしたこちらの方が「引いて」しまうほど盛り上がってしまいました(そもそも、後者については、「ひょっとしたら、あそこじゃないかなぁ」という以上の予備知識がなかったせいでもあります)
 今回、ご要望のあったテーマの一つは、大まかにいえばヒルサイドテラス前あたりから、略北方向に玉川通りの神泉町交差点(個人的には、かつての名称「上通3丁目交差点」というほうがなじみやすい*までの(実はもう少し北に続いて山手通りの松涛2丁目あたりまでがそうらしいのだが)「旧山手通り」の成立史でした。

*同様に「西麻布の交差点」といわれてもすぐには場所がイメージできないが、「霞町の交差点」といわれると瞬時にイメージできる。

■私自身も…
この「旧山手通り」なる道は、運転免許を取った昭和44年以来、たまたま車で大学に行ったときの帰り途など、気が向いたときに、「ちょっと回り道」」をして通っていた「楽しく走れる高級感のある道」なのですが、なぜ、冒頭に「旧」が付くのかは、かねがね40年以上、疑問に思ってはいたものの*、今回まで改まって調べたことはありませんでした。

*と、いっても、大抵の場合「南平台の道」とか「ヒルサイドテラスのところの道」で話が通じるので、あえて突き詰める必要もなかった。

■今回調べてみて…
判ったことは、この「旧」という1文字に、東京(府・市・都)の
・明治に始まる、俗にいう帝都改造計画*
・大正12年に始まる「」災復興計画
・昭和20年以降の「」災復興計画
の、全てが凝縮しているともいえることだったのです。
*公式ないしそれに近い呼び方としては「東京市区改正」というらしい

■代官山周辺の…
「山手通り」には、大まかにいえば、
・駒沢通りの槍が崎交差点を南端とし、松涛2丁目あたりを北端とする、
  いわば目黒川左岸の崖線上の「旧山通り」(以下、仮に「上の道」という)と、
・品川方面から目黒川沿いの低地を北上してきて、
  玉川通りの氷川神社手前の立体交差でやや東に進路を変え、
  玉川通りをアンダーパスする「山手通り」(おなじく「下の道」という)
とがあります。

■実は…
最初の環状6号線こと「山手通り」は「上の道」であり*、これが戦後すぐ、環状6号線が「下の道」に付け替えというか「振り替え」られ、それに伴って「上の道」が「補助25号線」へと「格下げ」されて「『旧』山手通り」と呼ばれるようになっていたのです。

*「上の道」 の「『旧』山手通り」が開通するまでの由来は、この地の三田用水の用水路の帰趨と深くかかわっています(その点については、稿を改めて)

■以下…
当日のプレゼン資料を使ってその経過をご説明します。

●「上の道」の由来


  つまり、一言でいえば、関東大震災からの「震災復興計画」の一環として昭和2年に計画決定された道路といえます。

●「下の道」の由来

 この道は、震災前からの、いわゆる「帝都改造計画」の一環として
 
 

 

という、当時、ほとんど「近世のまんま」だった*、東京の市街地の道路の負担を軽減するために計画された、市街を通過するだけの車を迂回させるための道路と思われます。

【参考】

「江戸朱引絵図」文政01(1818)年12月
幕府が「江戸」の範囲を、江戸城を取り巻く朱色の線の内側と取り決めたときの図
(黒い線〔墨引線〕は、江戸町奉行所の管轄範囲を示す)
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm
「Ⅰ.3.9街路」など、この環状道路が、朱引線のやや内側に沿ったものであることがわかる。

 つまり、近世、つまり江戸時代の東海道、中山道、甲州道中といった主要街路は、すべて日本橋を中心として放射状に設けられていましたから、たとえば、埼玉方面から神奈川方面に向かう車(当時のことなので、自動車だけでなく、馬車・牛車さらには人が牽く荷車も同じ。以下同)は、東京市街に何の用事も無いのに、日本橋を経由する必要があることになります。

 そのような「東京市街に用事のない車」によって旧市街の道路が必要以上に混雑するのを防ぐために、この旧市街の外側を迂回する道路が必要だったわけです。

*大正5年当時でも「街路は幹線道路でさえ満足な舗装がなされておらず、晴れの日は黄塵が舞い、雨が降れば泥濘となり、ドジョウが棲むと皮肉られたほどであった」という(越沢明「東京都市計画物語」中央経済評論社〔都市叢書〕/1991・刊p.4)。

●「上の道」と「下の道」の位置関係は…

こういうことになります。


●この「下の道」略号「Ⅰ.3.9街路」は

昭和3年には、開通していました。

●一方「上の道」の方は…
 
昭和8年に着工されています*
 
*この着工の時点での、旧山手通りの原型にあたる道路は、明治末~大正初期に開通した幅員5メートルに、三田用水の水路の直線化・暗渠化の用地として朝倉家が提供した幅員1.2間(約2.2メートル)を加えた約7.2メートルでした。
 もっとも、水路の暗渠は、下図左の断面図のような(無筋)コンクリートのU字型の溝(多分「現場打ち」)の上に、同じく右のようなパネル状の鉄筋コンクリート製の蓋を並べて載せたものですが、この蓋は、いわゆる「シングル配筋」、つまり、力が加わるはずの上下方向とは直角の水平方向の鉄筋が1段しかないので、この上に自動車を通すには無理がありますので、おそらく、この蓋付き暗渠の部分は歩道として使われたのでしょうから、車道幅は先の5メートルから大きくは広がっていなかったと思われます。
東京都公文書館・蔵
 
 
東京都公文書館・蔵
 
●ちょうど…
その工事中の空中写真が国土地理院のデータベースにありました。
 


 この時点では、南平台あたりは工事完了。現在の都立商業高校あたりは、まだ施工中ですが、昭和13年には、現・神泉町交差点と鎗が崎交差点間が全通しています。
 
 事態が「ややこしく」なったのは、これからです。
 

●「戦災」復興計画
 
 昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾による敗戦と相前後して*、文字どおり焦土と化した東京**などの復興計画の策定が開始されました。


*内務省や東京都では、公式な宣言受諾より5日ほど先立つ、昭和20年8月10日には「戦災」復興計画の検討が開始されている(前掲・越沢p,201)、
**東京については、昭和20年3月10日の東京大空襲(下町空襲)があまりにも有名なので、その陰に隠され気味だが、同年5月24・25日には、山の手地区も空襲(山の手空襲)によって広汎な区域が罹災している。


 その一環として

 「S54東京都告示第886号」の原典は未入手。重複路線を整理しただけの可能性も高い。
 
 これを図で示せば
 

 つまり、もともとは全く「別の道」だった、「Ⅰ.3.9号線」のほぼ北端と「環状6号線の1」の南端近くとの間に、新しい道を作り、両者を一つにつなぐことによって、品川方面と板橋方面とを直通する「1本の道」でつなぐための計画だったわけです。
 このことによって、品川方面から板橋方面に向かう車は、氷川神社下で右折して上通り3丁目で左折する必要がなくなり、逆方向の車も、鎗が崎で右折して今の中目黒立体交差のところで左折する必要がなくなります。 
 
 なお、計画当初の段階では、赤点線のような「Ⅰ.3.9号線」北端の氷川神社南と今の東大裏交差点を直線的に結ぶルートが描かれていましたが、今の東大教養学部(当時は「第一高等學校」)のキャンパスのほぼまん真ん中を突き抜けるという「無茶苦茶」な計画で、どう考えても机上の空論。
 実際には、紫色の点線のような現実的なルートになっています(この計画変更の資料は未発見)
 
■一般論としては…

この旧山手通りの主要道路である環状線から補助線への「格下げ」は、「よいことでは無い」のですが…
 
代官山地区にとっては、むしろ「幸運」だったといえ
 
 
 
 そのために、「落ち着きのある街路」が「落ち着きのある街区」を産み、その「落ち着きのある街区」が「落ち着きのある街路」に留めるという相乗効果によって、それらが*、今も残ってくれているのでしょう。
 
*もっとも、ここまで街区としての「まとまり」を持つと、地区計画があろうがなかろうが、建築主の「沽券にかかわる」ので「場違い」な建物は建てにくいだろう
 
 
【参考】昭和13年完成直後の旧山手通りと、ほぼ同一時期で