2017年6月25日日曜日

上大崎村の溜井(池)新田

北沢川文化遺産保存の会…
<http://blog.livedoor.jp/rail777/>恒例のツアー「都市物語を旅する会」の一環、
2017年6月24日の「第2期第4区 大日本麦酒工場跡~五反田駅」
のご案内をさせていただいた。

そのツアーの終盤の…
目玉と考えていた場所に、日本鉄道品川線(現・JR山手線)開通時に目黒駅のあった、三田用水の鳥久保分水末流に近い場所(下図赤丸)がある。

迅速測図〔M13〕M13抜粋に
三田用水路=紫線、鳥久保分水路=青線、水車場=空色星印を各補入

初代目黒駅のことは…
今回措くとして、この地域に興味を持った理由は

高島緑雄「関東中世水田の研究」日本経済評論社/1997・刊

のpp.65・66に

…そこはJR山手線五反田駅の西北方約五〇〇メートルの地点で、白金台地を刻んできた目黒左記岸低地に開口する「西」・「中」・「東」の三本の狭短な谷が合わさった出口である。ちなみに一九〇九年地形図によると、JR山手線が五反田駅と目黒駅間を登り下りする線路は、「西」側の谷の傾斜を利用して敷設されている。また地形図が目黒駅南の切り通しになった谷頭付近に付した地名は、「西ノ谷」である*…。
 このような溜池の立地は、この溜池の機能が、明らかに二本の谷水を谷口で貯留し、目黒川左岸低地所在の水田を灌漑するものであったことを明らかにする。寛文四年(一六六四)に下北沢村で玉川上水を分水し、芝白金御殿に通水した上水で、享保八年(一七一三)に用水に転用された三田用水が、「中」の谷を経由して目黒川左岸低地の水田に注がれると、同池はその役割を終えて溜井新田に変化するのである。

とあったからである。


* 加えて「『中』の谷」の地名は、上流部は分水名の起源と思われる「鳥久保」だが、下流部の溜井新田のあたりは「池ノ谷」という、いわば「そのまんま」の名前である。



つまり…

高島教授の考えでは、
  • 後に三田用水鳥久保分水となった谷を中心にその東西2つの谷からの合流点に、(おそらく中世期にこの地に水田が拓かれたときに)溜井(池)が設けられ、その水が、そこから、南の目黒川に至る地域の水田の灌漑に使われていた
  • その後、中央の谷が三田用水の鳥久保分水となって、上流から恒常的に水が供給可能となったため、溜井(池)が不要となったので、干拓するなどして水田に転用された
ということになるし、現に同書p.66に引用されている弘化2(1845)年の宿村絵図によると、同地が「(上大崎村)溜井新田」、つまり、「元は溜井だった場所に新たに開かれた田*」を意味する地名で呼ばれていたことがわかる。

*「新田」といっても必ずしも「水田」を指すわけではない(畑であることも多い)。ただ、この地の場合、地形的にも水利の面でも水田と考えてよいだろう。


なお…

この地については、幕府普請方制作の「御府内場末往還其外沿革圖書」中の広域図である
「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」国会図書館・蔵
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9370094/2>
にも「溜池新田」と表示されていて、この地名がかなり「固定」されてたことがわかる。



 (なお、「弘化三午年九月調 麻布…碑文谷村一圓之繪圖 三枚之内中」国会図書館・蔵〔pid=2587256〕も同じ)

こうなると…
高島教授のいう溜池の新田への転換と、当方のメインテーマである三田(上)用水との関連について、さらに詳しく情報の分析をしてみたいところなので、まずは、新編武蔵風土記稿で、鳥久保分水の水の引取先とされている*上大崎村と谷山〔ややま〕村の件を見てみると

*品川町役場・編「品川町史 中巻」同町役場/S07 /06/10・刊 p.487
 <https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&pg=PT515&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwibhd2prdjUAhUEEbwKHUVsDJIQ6AEILjAD#v=onepage&q=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&f=false>

●上大崎村

 …撿地ハ元禄八年織田越前守改メシ後享保十七年筧播磨守新田を撿ス

●谷山村

 …享保五年筧播磨守撿地セリト云コレハコノ頃新墾ノ田アリシ故ナルヘシ

とあって、少なくとも上大崎村については三田用水の開鑿と時期的に整合することがわかった。
 
ところで…
この溜井(池)新田のことを知った4年ほど前から、まだ溜井(池)のあった時代の地図を探していたのであるが、実は「探す」までもなく、すでに6年以上前からPCの中に眠っていたことが、今朝になって、わかってしまった。
 
それが
「江戸方角安見図」
という、幕末にいわば大流行した切絵図の原型3系統のうちの1系統とされる*、延宝8(1681)年刊行の地図(帳)である。
 
*朝倉治彦・編「江戸方角安見図」東京堂出版/S50/12/25・刊p.4
 
国会図書館・蔵〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575024/28
の図を抜粋+反時計回りに90度転回+画像調整
図の右下の青塗り部分が溜井
 
この図を最初に早稲田大学のライブラリからダウンロードして観察したときは(三田用水の経路が含まれているので、チェックの対象だった)いわゆる「事実の理論負荷性」というやつで、この青塗り部分が溜池とは全く思いも及ばず、南方にあるので目黒川を簡略化して表現したものか、などと漠然と考えていた。
 
しかし、今あらためて見てみると、青塗の左下に「トクセウシ」つまり、今の山手線の南側線路際にあって目黒川からはそこそこ北に離れている徳蔵寺


2017/06/08撮影
〔Sonyα7R+Elmarit28(4th.)〕

が表示されているので(前掲「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」左下付近の赤塗部参照、青塗部が目黒川であるわけはなく、高島教授の指摘する溜井を表現していることに疑いはない。
 
 

2017年6月13日火曜日

2016年9月21日 代官山での講演記録

■昨2016年9月21日に…

代官山ステキサロンで「三田用水略史」と題してお話させていただいた記録が
 
リ・ニューアル中の「代官山ホームページ」
http://www.daikanyama.ne.jp/

に掲載されました。
http://npodsi.sakura.ne.jp/dhp2017/mitayosui/file04.pdf

■ちょうど…

当ブログの

【余録】「旧山手通り」は、なぜ「『旧』山手通り」なのか?
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/03/blog-post_18.html
の序論にあたる内容です。

併せてお読みいただければ幸いです。


2017年6月6日火曜日

【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合

■小坂克信先生から…
羽村市郷土博物館・編「羽村市郷土博物館紀要 第三十一号」同市教育委員会/平成20年3月30日・刊
をお送りいただいた。

■左から開く…
縦組みのページの中の
出版社であるクオリの代表者である
http://bigai.world.coocan.jp/msand/miwa/kuori.html

比留間 博「玉川上水十三里小考」〔同紀要pp.24-30〕
は、大変興味深いものの、その内容の検証には、この先、かなり時間がかかりそうなので、「後回し」というか今後の課題にしておくことにする。

■と、いうわけで…
同紀要中の
 小坂克信「武蔵野台地における玉川上水の水利用」〔同紀要pp.31-53〕
の方をじっくりと読ませていただいた。
 内容的には、小坂先生の、これまでの研究成果の、いわば集大成の要約。
 とくに、近世の享保あたりから昭和の時代に至るまでの、当方のメインテーマである三田用水史を含めて、時系列的にコンパクトにまとめられているので有難く読んでいたところ

■その…
46ページの「表6 昭和6年6月 玉川上水の分水 (東京市第二水道計画参考書)」なる表〔以下「分水表」という〕を見て「ビックリ」。
 かねてから、欲しかったデータの一つだったのである。

■と、いうのも…
この昭和6年当時のデータによれば、三田用水普通水利組合〔以下「組合」〕による三田用水の給水先は
飲料水に使用している者(推定)    0人
雑用水に使用している者(推定)    0人
田反別(=田用水に使用している面積) 0反
水車数(精穀・工業)            0基
工場                     3か所
庭園                     14か所
となっている。

■つまりは…
この昭和6(1931)年の時点では、もともとは農業用水だったはずの三田用水の水で灌漑する田圃はゼロで、結局は

3か所の工場と
14か所の庭園(つまり、池の水)

に給水するため「だけ」に組合が存続していたことになる。

■これらの「水の使用者」のうち…
「池の水」については、もう少し調べなければわからないのだが、
「工場」については、この論文の46ページによると
・海軍技術研究所
・ヱビスビール
・電信協会
の3か所の由。

 このうち
・海軍技術研究所 は、現・防衛省技術研究所
・ヱビスビール  は、現・エビスガーデンプレイス
の場所にあるのは自明、加えて
・電信協会    は、防衛省技術研究所の北隣りの別所坂上
にあったことがわかっている。

■ここまでわかってくると…
これまで、ある程度まで想像はできてはいたものの、いわば「最後のウラが取れなかった」3つほどの問題について、はっきり、解明が可能になってきた。

■その懸案というのは…
3つあったのだが、そのうち2つは「ほぼ見当はついていたものの、最後のウラが取れなかった」という類の話なので、まずは残りの1つから。

■数少ない…
今も残る三田用水の遺構


の一つに、白金台の「石積の築堤」がある。


 ここは、いかにも存在感のある用水路の石積の築堤の西端が残されている場所ではあるのだが

渡部一二〔わたべ かつじ〕著「玉川上水系に関わる用水路網の環境調査」とうきゅう環境浄化財団/1980・刊
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E7%B3%BB%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8B%E7%94%A8%E6%B0%B4%E8%B7%AF%E7%B6%B2%E3%81%AE%E7%92%B0%E5%A2%83%E8%AA%BF%E6%9F%BB

のpp.355・356によると、現存している遺構から、上の写真の手前(東)方向の40~50メートルの部分が、渡部教授の調査時点である昭和54(1979)年3月3日当時〔p.358〕崩壊していた

渡部論文p.335より引用
という。

渡部前掲p.136 写真49
 


■かつてWeb上で…
情報を探すと、どうやら、1934(昭和9)年9月の室戸台風で決壊「(今里101 番地)旧町野武馬邸表庭に放水滝に上大崎へ流水。」*となったまま、放置されていたらしいことがわかってはいた。
https://www.city.minato.tokyo.jp/takanawachikusei/takanawa/koho/documents/takanawab2.pdf

*なお、https://ameblo.jp/henry7/entry-10368695526.html も参照

■問題は…
なぜ、決壊したまま放置されていたのか、にある。
 と、いうのも、この場所は、江戸時代から築堤(築立場)を作って用水を通していた場所らしいのだが、


国会図書館・藏「御府内場末往還其外沿革図」より


大正12年の関東地震でそれが崩壊し、おそらく昭和2年まで時間と3500円という大金をかけて、石積みの築堤を再構築した*はずの場所だからである。

*三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同/S59/09/30・刊 p.277

■しかし…
先にみたように、この昭和9年当時、すでに
・流域に全く水田はないのだから、かりに三田用水全体の通水が止まっても、そのために困る農家は存在せず、その点では水車用水についても同様だし
・工業用水についても、需要者中の最下流にあるヱビスビール(当時は大日本麦酒)への分水口である、今の日の丸自動車のあたりにあった銭瓶窪口



まで通水できれば足りていたのである。

■従って…
残るのは、庭園用水しかなく、現に問題の崩落場所のすぐ上流には、藤原銀次郎という三井出身の財界人の別荘があって、


藤原銀次郎茶庭
同「私のお茶」講談社/S33・刊


〔推定〕旧・藤原銀次郎邸庭水排水口跡
おそらく現存せず


なぜか旧藤原邸跡地にあった茶室風建物
2009/02/11撮影:現存していない

 
そこの池に水を供給していたのだが、それより下流に庭園水の需要者がいたのかどうかも不明なのであるし、いずれにせよ
・人の生命や企業の存亡にかかわる水ではなく
・すでに近代水道(日本水道)が引かれていた地域でもあるし
・なにより、年間の引水料が1軒につき17円程度*だったので、多額の費用をかけて築堤を再築しても採算が合わない可能性が高かった
ためと考えて大きな間違いはなさそうである。

*前掲「江戸の上水と三田用水」p.168の昭和7年度の「歳入歳出予算表」に「西郷従徳外三名」分の「用水使用量」として、前年度と同額の68円が計上されている。
 先の「分水表」の14軒と較べ、おそらくは上水道の普及によると思われるが、需要者が激減している。

【余談】

「藤原銀次郎の茶室」なるものを調べていると…

齊藤康彦「根津嘉一郎の茶会ネットワーク」
山梨大学教育人間科学部紀要  第 十三 巻 二〇一一年度
http://opac.lib.yamanashi.ac.jp/opac/repository/1/29184/13_XXXI-XLIII.pdf
p.32(pdfのp.2)によれば、この白金今里の藤原邸の茶室は、「暁雲庵」と名付けられていたことがわかった。

 で、この「暁雲庵」、細かい経緯は不明ながら、なんと我が家の菩提寺である、杉並・梅里の三井寺〔「みいでら」ではなく「みついでら」〕こと真盛寺
 

 

に移されていたことがわかった。
http://goddoor70.exblog.jp/5993589/

 これまで、墓参の折などに写真は撮っていたのだが(なお、檀家・墓参者以外入山禁止)、最近はあらかた、境内にいる「地域猫」の写真



ばっかり。

 次回には、この、「暁雲庵」の写真を撮りたいところだが、同寺には、参道すぐ右の1棟


のほか、境内奥、本堂西に多分2棟の茶室があって、どれが「暁雲庵」なのやら…。

2017年4月1日土曜日

錢瓶窪右岸分水と千代が池

■先に…

当ブログの
「錢瓶窪右岸分水」
http://mitaditch.blogspot.jp/2016/11/blog-post_6.html

で少し触れたように、この周辺地域は、江戸時代から江戸郊外の中では比較的街場が開け、また、日本鐡道品川線(現JR山手線)の目黒駅(2代目)のある永峯に近いことから、M42測T06修測の1万分の1地形図「三田」の段階では、すでに雛壇状の宅地に造成されていて、元の地形が全く読みとれなくなっている。

■しかし…

国立公文書館で、錢瓶窪右岸分水を示していることにほぼ疑う余地の無い図面が昨年秋に見つかり、また、T06年図でも、まだ、江戸時代に松平主殿の抱屋敷「絶景観」の中にあった名勝「千代が池」がまだ残存しているので、分水路と千代が池との位置関係や、広重の錦絵がどこから描かれた光景なのかを分析してみたいと思っていた。

■残念なことに…

手許にある1万分の1「三田」図は、T06修測図しかないので、なんとかM42測図を入手したかったのだが、なかなか古書市場にもネットオークションにも出現してくれなかったのである(西隣の「世田谷図」は入手できた)。

■そんな折…

ネットオークションで、東京首部、中野、東京南部、世田谷の4枚の2万分の1地形図を剥ぎ合わせた地図を入手できた。

 出品者の説明では、T06年図ということであり、確かに、書誌が確認できる左葉はT06発行の、中野図はT04、世田谷図はT02鉄補図だったのだが、右葉下の東京南部図には、明治45年ころまでに廃止されたはず*1の目黒火薬庫軍用線*2が描かれているので、大正以降に修測される前のM42測図と考えられた。

 はたして、同図の錢瓶窪、千代が池周辺は、深い谷が目黒川左(東)岸の崖線を削っていて、宅地造成前の当地の原地形を示している。


[推定]M42 測1/20000地形簾「東京南部」〔部分〕
赤矢印が千代が池
*1 各国立公文書館・アジア歴史アーカイブ
目黒火薬製造所元軽便鉄道敷地の内不用地還付の件
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C02031567000

目黒火薬製造所及白金火薬庫間軌道敷地還付の件
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C02031332900

*2 同上
火薬運搬軌道敷設ノ為メ土地収用法適用ノ件附図・閣議案ハ三十四年公文雑纂巻十九陸軍省ニ載ス
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A10111081200
図面上、機関庫らしきものも、馬小屋らしきものも描かれていないので、人が貨車を押す人車軌道ではないかと推測している。

■これで…

ある程度目途が立ったので、
・地番境や銭瓶窪右岸分水からの水路が明瞭に描かれている
   いわゆる郵便地図
   (東京逓信管理局作成「荏原郡目黒村全図」逓信協会/M44・刊
   <http://www.meguro-library.jp/data/oldmap/map4/>参照)
・昨年見つけた国立公文書館の
   錢瓶窪右岸分水の図面
・2万分の1地形図「東京南部」を赤/透明に変換した図
を順次重ねてみた。



■細かい…

部分では微妙に整合しない部分はあるが、さすがに明治末期の地図2枚は位置・角度とも問題なく重なったし、同12年の図面も少し縦横比を修正するだけで、大きな矛盾なく重ねることができた。

 これをみると、この千代が池には、分水路から青矢印のような水路を掘り割って千代が池に広重の錦絵のような滝を仕掛け、北端の黄色矢印のあたりの池尻から元の分水路に余水を落としていたらしいことがわかる。

 また、
この分水路は、最上流部の等高線から推して、三田用水開鑿時に、もともとこの辺りにあった小河川の谷頭部に用水からの水路をつないだものらしいこと
千代が池も、 この小河川が、人為的にあるい崖の崩落で自然に、堰き止められてできたらしいこと
がわかる。

■廣重の…

錦絵は、千代が池の南西にあった絶景観構外の道路から、黄緑色の矢印方向に描かれたのだろう。


廣重・絵本江戸土産「目黒千代が池」




 
























廣重・名所江戸百景「目黒千代が池」
なお、大名の抱屋敷である絶景観内部を、構外の道路から眺めることができた理由は、冒頭の別アーティクル参照。

 また、この道路が、当時から存在したことは、幕府の普請方が、いわゆる沿革図書の一環として作成したらしい地図を見れば明らかだろう。

「弘化三年九月調 白金…碑文谷 一圓乃繪圖」〔国会図書館ID:2587256〕
から抜粋した画像を回転のうえ矢印加筆

【追記】
この銭瓶〔噛〕窪右岸分水は、明治33年、その水利権が、日本麦酒に譲渡されている。
(小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」pp.113・114)
<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2011/12/d5dee0a2422f6d5ba003d7be3dad345a.pdf>)



2017年3月18日土曜日

【余録】「旧山手通り」は、なぜ「『旧』山手通り」なのか?

■不思議な「ご縁」で…
NPO代官山ステキ総合研究所のイベントでお話させていただく機会も、去る2017年3月17日が3回目となりました。
 その
1回目、昨2016年初夏のときは、「水車」の話で、
2回目、同年9月のときは、「三田用水・鎗が崎の『土管』」なるもので、
それぞれ、お話しをしたこちらの方が「引いて」しまうほど盛り上がってしまいました(そもそも、後者については、「ひょっとしたら、あそこじゃないかなぁ」という以上の予備知識がなかったせいでもあります)
 今回、ご要望のあったテーマの一つは、大まかにいえばヒルサイドテラス前あたりから、略北方向に玉川通りの神泉町交差点(個人的には、かつての名称「上通3丁目交差点」というほうがなじみやすい*までの(実はもう少し北に続いて山手通りの松涛2丁目あたりまでがそうらしいのだが)「旧山手通り」の成立史でした。

*同様に「西麻布の交差点」といわれてもすぐには場所がイメージできないが、「霞町の交差点」といわれると瞬時にイメージできる。

■私自身も…
この「旧山手通り」なる道は、運転免許を取った昭和44年以来、たまたま車で大学に行ったときの帰り途など、気が向いたときに、「ちょっと回り道」」をして通っていた「楽しく走れる高級感のある道」なのですが、なぜ、冒頭に「旧」が付くのかは、かねがね40年以上、疑問に思ってはいたものの*、今回まで改まって調べたことはありませんでした。

*と、いっても、大抵の場合「南平台の道」とか「ヒルサイドテラスのところの道」で話が通じるので、あえて突き詰める必要もなかった。

■今回調べてみて…
判ったことは、この「旧」という1文字に、東京(府・市・都)の
・明治に始まる、俗にいう帝都改造計画*
・大正12年に始まる「」災復興計画
・昭和20年以降の「」災復興計画
の、全てが凝縮しているともいえることだったのです。
*公式ないしそれに近い呼び方としては「東京市区改正」というらしい

■代官山周辺の…
「山手通り」には、大まかにいえば、
・駒沢通りの槍が崎交差点を南端とし、松涛2丁目あたりを北端とする、
  いわば目黒川左岸の崖線上の「旧山通り」(以下、仮に「上の道」という)と、
・品川方面から目黒川沿いの低地を北上してきて、
  玉川通りの氷川神社手前の立体交差でやや東に進路を変え、
  玉川通りをアンダーパスする「山手通り」(おなじく「下の道」という)
とがあります。

■実は…
最初の環状6号線こと「山手通り」は「上の道」であり*、これが戦後すぐ、環状6号線が「下の道」に付け替えというか「振り替え」られ、それに伴って「上の道」が「補助25号線」へと「格下げ」されて「『旧』山手通り」と呼ばれるようになっていたのです。

*「上の道」 の「『旧』山手通り」が開通するまでの由来は、この地の三田用水の用水路の帰趨と深くかかわっています(その点については、稿を改めて)

■以下…
当日のプレゼン資料を使ってその経過をご説明します。

●「上の道」の由来


  つまり、一言でいえば、関東大震災からの「震災復興計画」の一環として昭和2年に計画決定された道路といえます。

●「下の道」の由来

 この道は、震災前からの、いわゆる「帝都改造計画」の一環として
 
 

 

という、当時、ほとんど「近世のまんま」だった*、東京の市街地の道路の負担を軽減するために計画された、市街を通過するだけの車を迂回させるための道路と思われます。

 つまり、近世、つまり江戸時代の東海道、中山道、甲州道中といった主要街路は、すべて日本橋を中心として放射状に設けられていましたから、たとえば、埼玉方面から神奈川方面に向かう車(当時のことなので、自動車だけでなく、馬車・牛車さらには人が牽く荷車も同じ。以下同)は、東京市街に何の用事も無いのに、日本橋を経由する必要があることになります。

 そのような「東京市街に用事のない車」によって旧市街の道路が必要以上に混雑するのを防ぐために、この旧市街の外側を迂回する道路が必要だったわけです。

*大正5年当時でも「街路は幹線道路でさえ満足な舗装がなされておらず、晴れの日は黄塵が舞い、雨が降れば泥濘となり、ドジョウが棲むと皮肉られたほどであった」という(越沢明「東京都市計画物語」中央経済評論社〔都市叢書〕/1991・刊p.4)。

●「上の道」と「下の道」の位置関係は…

こういうことになります。


●この「下の道」略号「Ⅰ.3.9街路」は

昭和3年には、開通していました。

●一方「上の道」の方は…
 
昭和8年に着工されています*
 
*この着工の時点での、旧山手通りの原型にあたる道路は、明治末~大正初期に開通した幅員5メートルに、三田用水の水路の直線化・暗渠化の用地として朝倉家が提供した幅員1.2間(約2.2メートル)を加えた約7.2メートルでした。
 もっとも、水路の暗渠は、下図左の断面図のような(無筋)コンクリートのU字型の溝(多分「現場打ち」)の上に、同じく右のようなパネル状の鉄筋コンクリート製の蓋を並べて載せたものですが、この蓋は、いわゆる「シングル配筋」、つまり、力が加わるはずの上下方向とは直角の水平方向の鉄筋が1段しかないので、この上に自動車を通すには無理がありますので、おそらく、この蓋付き暗渠の部分は歩道として使われたのでしょうから、車道幅は先の5メートルから大きくは広がっていなかったと思われます。
東京都公文書館・蔵
 
 
東京都公文書館・蔵
 
●ちょうど…
その工事中の空中写真が国土地理院のデータベースにありました。
 


 この時点では、南平台あたりは工事完了。現在の都立商業高校あたりは、まだ施工中ですが、昭和13年には、現・神泉町交差点と鎗が崎交差点間が全通しています。
 
 事態が「ややこしく」なったのは、これからです。
 

●「戦災」復興計画
 
 昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾による敗戦と相前後して*、文字どおり焦土と化した東京**などの復興計画の策定が開始されました。


*内務省や東京都では、公式な宣言受諾より5日ほど先立つ、昭和20年8月10日には「戦災」復興計画の検討が開始されている(前掲・越沢p,201)、
**東京については、昭和20年3月10日の東京大空襲(下町空襲)があまりにも有名なので、その陰に隠され気味だが、同年5月24・25日には、山の手地区も空襲(山の手空襲)によって広汎な区域が罹災している。


 その一環として

 「S54東京都告示第886号」の原典は未入手。重複路線を整理しただけの可能性も高い。
 
 これを図で示せば
 

 つまり、もともとは全く「別の道」だった、「Ⅰ.3.9号線」のほぼ北端と「環状6号線の1」の南端近くとの間に、新しい道を作り、両者を一つにつなぐことによって、品川方面と板橋方面とを直通する「1本の道」でつなぐための計画だったわけです。
 このことによって、品川方面から板橋方面に向かう車は、氷川神社下で右折して上通り3丁目で左折する必要がなくなり、逆方向の車も、鎗が崎で右折して今の中目黒立体交差のところで左折する必要がなくなります。 
 
 なお、計画当初の段階では、赤点線のような「Ⅰ.3.9号線」北端の氷川神社南と今の東大裏交差点を直線的に結ぶルートが描かれていましたが、今の東大教養学部(当時は「第一高等學校」)のキャンパスのほぼまん真ん中を突き抜けるという「無茶苦茶」な計画で、どう考えても机上の空論。
 実際には、紫色の点線のような現実的なルートになっています(この計画変更の資料は未発見)
 
■一般論としては…

この旧山手通りの主要道路である環状線から補助線への「格下げ」は、「よいことでは無い」のですが…
 
代官山地区にとっては、むしろ「幸運」だったといえ
 
 
 
 そのために、「落ち着きのある街路」が「落ち着きのある街区」を産み、その「落ち着きのある街区」が「落ち着きのある街路」に留めるという相乗効果によって、それらが*、今も残ってくれているのでしょう。
 
*もっとも、ここまで街区としての「まとまり」を持つと、地区計画があろうがなかろうが、建築主の「沽券にかかわる」ので「場違い」な建物は建てにくいだろう
 
 
【参考】昭和13年完成直後の旧山手通りと、ほぼ同一時期で


 
 

2017年3月12日日曜日

東大先端/生産技術研究所前の暗渠化時期

■いわば…

公式の三田用水史といってよい
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組内/S59・刊
によれば、三田用水路の
笹塚〔正確には「世田谷町大字下北沢字堀向」〕から大日本麦酒工場までの、同社施工区間
大日本麦酒工場から下流の、三田用水普通水利組合施工区間
の暗渠化「全体の工事が完了したのは、昭和十四年~十五年であった」(pp.236・237)としているが、小田急線との交差部の工事完了が昭和16年中と考えられること
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html
からみて、この記述は必ずしも正確とはいえないことがわかった。

■そこで…
念のため、比較的時期が特定しやすいポイントと考えられた、そのやや下流にあたる、現・東大駒場キャンパスの資料を探してみた。

 ここの、駒場農学校からは「…一覧」という構内図付き案内書が発行されていて、ここの大半が、第一高等学校や前田侯爵邸になった後も、旧来の敷地西端で、現在は東京大学先端/生産技術研究所となっている、東京帝国大学航空研究所(以下「航研」)については、同様の構内図があるのではないか、と考えられたからである。

農商務省農務局「駒場農学校一覧」同/M17・刊(NDLID:812768)掲載(下方が北)



■予測通り…
国会図書館のデータベースを検索してみると、明治期に始まり昭和16年度までの多年度にわたる「東京帝国大学一覧」があって、該当時期とみられる昭和12年度あたりから15年度の航研の構内図を順次調べてみた。

■その結果…
航研前〔北〕の三田用水路が暗渠化されたのは、以下のとおり、ほぼ昭和14年で、ここに関しては「江戸の上水と三田用水」の記述と整合することがわかった。

 すなわち、、

・昭和15年度の「…一覧」<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466162>掲載の「昭和15年3月31日調査」の「建物配置図」


では、その右端〔北〕の道路との間に「三田用水路暗渠」との記載がある。

 それに対し、その前年の、
・昭和14年度の「…一覧」<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466223>末尾近くの「昭和14年3月31日調査」の「建物配置図」


上端〔北〕には、そのような記載がなく、単に濃いグレーの開渠と見られる水路が描かれているだけだからである。

配置図にある、水路に架設されている橋については、Web
 http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita04.htm
 を参照されたい。

【追記】

 やや本題から離れるが、上記の昭和15年の配置図を見ると
・図の右上に、「三角橋」の位置・形状が、これまで見たどの地図類よりも詳細に描かれている

北が上方になるように転回


・図の上方のは「都市計画道路線」とあるが、これは、都市計画道路20号(現・26号)路線で、
 ここの航研施設との関係で、当初計画を修正した経緯(この図は、その変更後)については、別ブログ
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/09/26-02d7.html
 を参照されたい。

 今から50年ほど前、当地に越してきた当時は、夏など窓を開けていると、時折、航研の風洞の音が聞こえてきた。
 当時から、その風洞がどこにあるのか興味はあったのだが、今回、初めて、その位置がわかった。
 そのころは、周囲に家が建て込む前で、北側中央にある本館の時計塔(今でもある)が、我が家の2階から直接見えていたのだから、風洞の音が聞こえても、当然だろう。





2017年3月11日土曜日

東北沢駅東の三田用水の立坑がまだ残っていた。

■複々線化工事の進む…

小田急線東北沢駅は、地下部分の構造物はすでに完成し、駅舎もすでに仕上げ段階に入っている。

 この駅の東、旧代々木上原3号踏切脇には、かつて三田用水が流れていた。



大山谷停車場(現・東北沢駅)設計平面図
東京都公文書館・蔵


 
線路の地下化工事にともなって、三田用水の水路の数少ない遺構の、線路下のサイフォン〔推定〕の立坑
 http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita03.htm
 (末尾近くの「[追記]2003/04/04」以下参照

も、とっくの昔に破壊されたとばかり思いこんでいた。

■普段は…

旧3号踏切のあった駒場道ではなく、1本西の裏道を通っているので気づかなかったのだが、昨日、ポストに寄る都合から、駒場道を通ったところ、最近まで工事現場にあったコンテナ式の事務所棟が取り払われていた。



    
        事務所棟のあった場所をよく見ると、何とあの立坑遺構は、まだ、周囲がH型鋼で組んだ枠で補強され、その上に鋼板を乗せた工事着手当時のまま、残っていたことがわかった。



   

 おそらく、肝心の工事の方の工程の都合もあり、立坑への対処の方針が決まらない状態で、事務所棟を置いたために、手つかずで残されていたのだろう。

■今後…

この場所では、駅前広場を造る工事が行われるはずなので、おそらくは、いわゆる「埋め殺し」にされて、姿を消すと思われるが、全く期待していなかった物を改めて見ることができ、


以上の写真は〔Elmarit28/4th〕


大げさにいえば、旧友に久しぶりに再会した気分である。

■この場所は
昭和初期、ビールの醸造用水の水質の維持のために恵比寿の大日本麦酒が始めた、従来の開水路〔白堀〕を、ヒューム管による暗渠にする工事にともなって、昭和16年ころ、水路と交差する小田急線の鉄橋を廃止して、サイフォン〔推定〕で線路下に用水を通す構造に変更したようなのである*

*国立公文書館に
 件名   三田用水橋梁廃止の件
 階層   行政文書>*運輸省>陸運関係>鉄道関係>地方鉄道免許・東京急行電鉄(元小田原急行鉄道)・昭和16~17年
 請求番号 平12運輸01878100
 件名番号 030
 保存場所 本館-3B-014-00
 作成部局 鉄道局
 年月日  昭和16年11月13日
 <https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000001300679.html>

なる記録がある。
 

 小田原急行鉄道で三田用水の橋梁があったとすれば、この、旧代々木上原3号踏切西脇以外にあり得ないので、下図のようなサイフォン化が昭和16年ころ行われたらしいことがわかる。


上記Webの図を修正
 
 
【追記】
■工事開始直後に…
携帯で撮った写真が出てきたので、この機会にご披露することにした。
 
2005/04/27 11:36
線路南の建設会社の寮の解体工事
 
 
2005/04/27 18:13
夕方には解体工事が完了していた
オリジナルの「蓋」の様子がよくわかる
2005/06/10
坑内を測量(計測)していたようである
 
2006/02/02
大型ライトを持っているので坑内の構造調査かと思われる

 
 
2006/06/19
目的不詳だが、四角い枠内が木の角材で埋められた


2006/11/日付不詳
四角い枠組みが、H型鋼のフレームで補強された
(これのみ、フィルムカメラによる画像)